映画的記憶の再生産
──タランティーノは次作で引退すると宣言していますが?
押井 やめるって前から言っていたけどさ。書きたいものを書き切ってしまったのかもしれないけど、もしかしたら監督としての情熱はすでに尽きてしまっているのかもしれないね。自己模倣に入ったような気もするし、ここ最近は冴えない。『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』をやっていたころは、本当に絶好調だったからね。「どこまでいくんだろう!?」と思ったもん。『キル・ビル』(03・04)からおかしくなっちゃった。
──『キル・ビル Vol.1』と『キル・ビル Vol.2』ですね。
押井 アイジー(Production I.G)がアニメパートを担当しているから、なんだかんだ絡んでいるんだけどさ。『キル・ビル』が2本になった背景には、いろいろあるらしいよ。でも理由はどうあれ、「切れないんで、2本にしてくれ」って考えは、間違えていると思うよ。ときどきそういう監督がいるんだけどさ。もともと1本の映画で考えていたんだから、1本の映画として完成させるべきであって、1本にならないのは監督のせい。考えを修正してでも1本にすべきだよ。1本のつもりだった映画を2本にしちゃうとね、炭酸が抜けちゃうというか、炭酸が抜けたビールみたいになっちゃう。『キル・ビル』を1本に編集し直したら、きっと面白いよ。
──押井監督だったら、どう編集しますか?
押井 千葉真一のところは全部要らない。ルーシー・リューとの一騎打ちも長すぎる。延々とやっている割にはアクションも大したことないし、長い割には残酷すぎる。要するにさ、全部あいつのお遊びなんだよね。つまり、映画的記憶の再生産。そういう意味ではスピルバーグに近いんだよ。映画の記憶の再生産で1本作ってしまう。スピルバーグと異なるのは、「感動させる」ってことがないところ。タランティーノの映画を見て感動する人はまずいないし、感動させることを本人が目指していないしね。「面白い映画を作りたい」っていうことでさ。まあ、今回は1992年の1本として『レザボア・ドッグス』を挙げたけど、タランティーノの映画は本質的にはどれも同じ。うまくいっているか、いっていないかのちがいがあるだけで、最近はうまくいっていない映画のほうが多いのかな。歳をとって巨匠になっていくようなタイプじゃないということに自覚的だから引退宣言をしているんだろうけど、小ぶりな作品でこそ才能を発揮するんだよね。『ヘイトフル・エイト』のように多人数だとダメ。『キル・ビル』も結婚式のところは素晴らしいんだけど、そこから急に力が抜けてしまった。だから本当に、ツーショットのダイアローグ劇を書く天才なんだよね。引退するしないに関係なく、『トゥルー・ロマンス』のときのように、ほかの監督に脚本を提供するってのもいいと思うんだけど。そんなところかな。
次回は1998年の1本を取り上げます!!