1992年『レザボア・ドッグス』編

映画は「格」を要求する

押井 でも、馬鹿騒ぎが常に面白いかというと、そういうわけでもない。寸足らずになっちゃうときがある。西部劇の『ジャンゴ 繋がれざる者』(12)もそうだし、雪の山小屋を舞台にした『ヘイトフル・エイト』(15)もそう。いくらでも面白くなりそうなのに、面白くならなかった。仕掛けが大きくなると、意外につまんねえなって。

──スケールの大きな映画との相性が悪い?

押井 スケール負けしちゃうっていうのかな。映画は、ある程度の規模になると、「格」を要求されちゃうんだよ。彼が作る画は、残念ながら「格落ち」。面白いことはやるんだよ。『ジャッキー・ブラウン』(97)で、ロングショットで引きの画のまま殺人事件を淡々と撮ってみたり。「面白いことを考えるなあ」って感心はするんだけど、面白いことにとどまっちゃうんだよね。そこが要するにさ、コピーの天才であるタランティーノの良さであると同時に、限界でもある。『ジャッキー・ブラウン』はまだいいんだけど、『イングロリアス・バスターズ』(09)や『ジャンゴ』なんかの大作になると、デカい画を撮りきれない。器に合った才能って、あるんだなって思うよ。比較して語るのがいちばん簡単だから、サー(リドリー・スコット)と比較して言うけど、サーはタランティーノの逆だからね。スケールがデカくなればなるほど、スゲえ画を撮る。それでいて役者の扱いもそれなりにうまい。『悪の法則』(13)なんて見始めたら、とまらないよ。ドラマとしての魅力もあって、画の流れに緊張感があるから、やめどきが見当たらない。逆にタランティーノ映画は、どっから見始めても、どこでやめても同じ。

──酷評ですね(笑)。

押井 いや、馬鹿にして言っているんじゃなくてね、本質的に異なる才能だと言いたいんだよ。タランティーノは「記憶の再生産」で、サーは「圧倒的な造形力」。サーの映画は、うちの奥さんに言わせると「3分見ただけで、あのひとの映画だって分かっちゃう」。リドリー・スコットのファンでもなんでもないんだよ。予備知識がなくても、あの監督の映画だと分かってしまう。色からしてちがうし、ほかの監督とはカメラの重たさがちがう。それでいて『オデッセイ』(15)のような笑える映画も撮ってしまう。大笑いするような映画ではないんだけど、たのしくてウキウキしちゃうよね、火星から単身帰還する『オデッセイ』は。

──どんな映画も自在に撮れるリドリー・スコットは無敵ですね!

押井 タランティーノにサーのような圧倒的な幅広さや格を要求しちゃいけないんだよ。逆に言うと、タランティーノには軽さがある。どんどん切り刻んで、時間を飛ばして、組み替えても成立しちゃう。あの軽さで、会話劇を、ツーショットで作り出していく。

──ツーショット?

押井 2人組みが基本。1人だと持たない。多人数だとまとめきれない。批判ばっかりしているように聞こえるかもしれないけど、そういう会話劇に突出した才能だということなんだよね。『パルプ・フィクション』のジョン・トラボルタとサミュエル・Lジャクソンがそうであったように、ダイアローグで成立している、そういう面白い脚本を書く人なんだよ。だから本当に、タランティーノの脚本を生かすも殺すもキャスト次第だよね。『ジャッキー・ブラウン』も、ちょっと構成がダルいんだけど、保釈金請負人を演じたロバート・フォスターが素晴らしかった。彼の魅力で持っている映画。逆に、残念ながら主演女優が魅力に欠ける。

──タランティーノの少年時代の憧れである『コフィ』(73)のパム・グリアですよ。

押井 そのせいなのかな、とかね。思い入れが強すぎたのかも。『パルプ・フィクション』ほどにはウケなかった『ジャッキー・ブラウン』も、主演女優が違っていたらもっとヒットしていたのかもしれない。ちょっと失敗しちゃっているかなという気がするんだよね。まあ難しいものだよ。