1968年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』編

ジャンル映画―方法論と快楽原則

押井 自分の映画の構造に関して言えば、オープニングでまずやる。『パトレイバー2』(93)どころか、『パトレイバー1』(89)の頃から同じなんだけどね。オープニングでまず何かやらかす。そして中間にダレ場があって、最後にいちおうね、お約束だから、必ず派手なラス立ちをやる。『ケルベロス 地獄の番犬』(91)だろうが何だろうがみんないっしょ。これは実は、ある時期のポルノ映画と同じなのだけど。最後にいちばんテンションを高くしないといけないというパターン。最初から全開にしていると映画にならなくなっちゃうから。

──たしかに、そうですよね。

押井 でもこれはいわゆる方法論の問題であって、「映画の本質」とは関係ない。「映画の本質」でいえば「快感原則」のほうこそが本質なんだよ。だけど快感原則の最大の問題点は、繰り返すことで、どんどん減衰していってしまう。エントロピーといっしょなんだよね。快感原則は必ず減衰する。これをいかにして、減衰させずに実現させるかというのが自分にとっての「映画のテーマ」になっている。演出家としてのね。

──快感原則を減衰させないために中盤に「ダレ場」をはさむのですね!

押井 ダレ場があることで、ラス立ちまで持っていける。そのようなことを、のちになってだけどね、学んだよ。「ジャンル映画」から。

──ジャンル映画を見つづけたことで「映画のテーマ」が見えた?

押井 だから「全部見る」というのがいかに大事かということ。カンフー映画が流行った頃は、カンフー映画を死ぬほど見たんだから。いつも言っているように「愚作駄作を回避するな」と。傑作だの名作だの言われている物だけ見て「映画を分かった」気になるなってことだよね。少なくとも、ジャンル映画と言われるものには、快感原則と言われるモノの秘密が必ずある。マカロニウエスタンだろうが、カンフー映画だろうが、任侠映画もそうだし、ヤクザ映画も、実録も。それでいてヤクザ映画と実録映画の快感原則は明確に異なるんだよ。そして観客は無意識にそれを嗅ぎ分けてしまう。だからこそブームになる。それは作っている側も明確に意識化して映画を撮っているわけではない。だからいろいろ探る。いろいろバリエーションを試す。ジャンルを試す。実はアニメーションはそれしかやってこなかった。メカモノ、魔女っ子モノというように、アニメーションで「ジャンルじゃない」モノがあるのかという話だよ。アニメーションはそれ自体がジャンルなんだよ。だからこそいろんなバリエーションが試されて、僕に言わせれば「本質が見えてくる」。

──本質を見つけ出すために数をこなすんですね。

押井 自分1人で、物を作って、それを繰り返すなかで本質が掴めるとは到底思えない。他人の体験も自分の体験にすることで本質が見えてくる。映画はそのために見るんだよ。少なくとも職業的には。本質を見抜くことをいちばん簡単に実現する方法が、ジャンル映画に注目することだった。だから僕はそのときどきでそのジャンル映画に特化してきたんだよ。鑑賞者としてね。日活ロマンポルノの頃は、たぶん全プログラムを見た。日活ロマンポルノは2週間でプログラムが変わるから、月6本見ることができたんだよ。3本立てのうち1本は外注で、ピンク系のプロダクションに出すわけだ。そっちのほうにたまに、あきらかに異なる別の快感原則があったりする。実はそこから才能ある監督が出てきたりするしね。だから、数をこなすことで、いろいろ見えてくるようになる。そして考えることができるようになる。頭のなかで照合できるようになるからだよね。

──映画的記憶というよりは「データベース」ですね。

押井 だから映画も「パターンを極めること」がどれだけ重要かということになる。数をこなすことで自分のなかでタグ付けができるようになるからね。データベースというのは、最近の流行りでいえばビッグデータだけど、ほとんどがクズなんだよ。情報としては「使えない情報」。でもクズがあって初めて検索するという行為が成立する。いい物だけ残して、あと全部消えちゃったらデータにはならない。データというものは母数が絶対だから。それは映画の体験も同じ。クズを山ほど見ること以外に映画の本質に近づく方法なんかないんだ。だから映画の教養主義ってのは、まあ、読書だろうが映画だろうがあらゆる分野でそうなんだけど、俺に言わせればたわごとだよ。パターンを尽くさないことには「本質に近づけない」。そのためには「人の体験を自分の体験にしない限りはデータベース足り得ない」。他人の体験をも自分の体験として取り込む。しかし全部他人の体験ではダメ。それだと単なるウィキペディアになってしまう。自分の体験の裏付けがない母数は母数ではない。僕はマカロニウェスタンというブームからこういうことを学んだ。どうかな? 1968年と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』についてはこんなところでいいんじゃない?

『2001年宇宙の旅』を退けて『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』を選ぶ、意外なスタートとなりました。自身をレオーネの直系と位置付ける「今の押井守」に、硬直化した教養主義でもなければ、無味乾燥なウィキペディアでもない、血肉の通った自己のデータベースの重要性を熱く語っていただきました。今後どのような映画が語られていくのか、大変気になります。

押井守の映画50年50本