8.岸田繁さんの歌詞について。/あなたが誰でもなくなる時に。

 くるりのことを知ったのは中学生の頃だった。当時、私はくるりの「東京」が好きで、よく聞いていたのだけれど、あのころこの歌詞をどう捉えていたのか覚えていない。複雑な表現は使わない、意味を捉えやすい歌詞なのに、私にはたぶん、わからなかったんだと思う。くるりの歌詞にはとても、そういうのが多い。わかっていなかったんだと気づくことの繰り返しです。わかっていたつもりでいることを、叱るわけでもなく、伝えるわけでもなく、ただそっと待ってくれるのが、くるりの言葉であると思う。

東京の街に出て来ました
あい変わらずわけの
解らない事言ってます
恥ずかしい事ないように見えますか
駅でたまに昔の
君が懐かしくなります
(※1)

 探していた言葉が、実はすぐそばにずっとあって、よく聞いていた音楽の中にあって、ずっと気づいていなかったのかもしれない、って思う。けれどもし私が過去に行って、この歌詞が将来とても好きになるよ、と伝えても、そこにどんな意味が込められているか語っても、過去の私はたぶんなんとも思わない。気づく瞬間こそが、言葉の価値を決めるときがあるよね。歌は、歌えるから、気づかない間もそばにある、忘れることがない。そうしてぼくを、ずっと待っていてくれる。

最終バス乗り過ごしてもう君に会えない
あんなに近づいたのに遠くなってゆく
だけどこんなに胸が痛むのは
何の花に例えられましょう
(※2)

 くるりの歌詞の語りは、聞き手のいる「吐露」とはどこか違っている。あくまで誰にも聞こえないモノローグとしてあるように聞こえるが、それは、でも、中にいつも「きみ」や「あなた」が住んでいる。届かない誰かへと、語りかける言葉がある。それはたぶん、「ぼくら」も同じだ。「ぼくら」と唱えているのは「ぼく」一人であり、誰かに聞こえるように、誰かを先導しようとするようにして書かれているのではない。「ぼく」は、もしかしたら一人きりで誰もいない道を歩きながら「ぼくらは」と思うのかもしれない。「きみ」や「あなた」や「ぼくら」という言葉が登場することで、どこか、人々が共有している「世界」の話であるように聞こえる、共感や、共鳴を呼んでいるようにも思う。でも、あくまで「ぼく」ひとりの、「ぼく」にしか見えないものを歌っているからこそ、あるとき「わかってなかったんだ」と気づくんだろう。それはでも、誰もが「世界」と思って見ているものが、それぞれに違う姿をしていること、「きみ」と呼んだところで、その「きみ」自身には少しも肉薄できないことに、気づくことに等しくて。くるりが何を言っているのかわからないことに気づくとき、もっと大切なことに気づく、自分は、自分の見ているものしか、わからないんだってこと。

君がいるかな
君と上手く話せるかな
まぁいいか
でもすごくつらくなるんだろうな
君が素敵だった事
ちょっと思い出してみようかな
(※3)

 くるりの歌っている「君」ってだれだろう、私じゃないし、あの子でもないし、でも、誰でもないわけではないということ。くるりの歌っている「僕」ってだれだろう、私じゃないし、あの子でもないし、でも誰でもないわけではないということ。
 個人的な言葉、この地球のどこかにいる、誰かの言葉、そのひとは「誰か」だけれど、でもそのひとには本当は名前があって、本当は人生があって、一瞬の、その人の環境や態度や見た目や肩書きじゃわからないことばかりです。でも、それらを引き剥がして、「誰か」になってしまったような、そんな言葉でしかわからないことがある。そんな言葉でないと、私が私であることを思い出せない。あなたが、あなたとして語る言葉でなければ。

 あなたが、あなたとして語るとき、あなたは「誰か」へと、桜吹雪のように、変わっていくのかもしれないけれど。


※1・3 くるり「東京」
※2 くるり「ばらの花」