1968年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』編

アクションと台詞の快楽原則

──『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』のどこに惹かれるのでしょうか?

押井 やっぱり快感原則だよね。快感原則にものすごく忠実に作られている。それも映像と音楽の相乗効果による快感原則。レオーネとモリコーネの得意技だよ。得意中の得意。この2人がコンビを組んだ最大の理由でもある。アクション映画をオペラにしちゃった。歌い上げた。アクション映画を祝祭にしたんだよ。こんな人たちほかにいない。僕が川井(憲次)くんと組んでいる理由とほぼ一緒。パトスなんだよ。

──パトス。激しい感情のことですね。

押井 うん。映像は、実は感情とほとんど無縁だからね。映像自体は、とっても冷静な表現なんだよ。常に客観性があって。言ってみれば「クール」なんだよ。これにどうやってパトスを吹き込んで「映画」にするか。僕の言葉で言えば「魂を吹き込む」。これは音楽にしかできない。

──音楽に騙されちゃう。

押井 極端に言えばそうなる。「(映画の)半分は音楽だ」といつも言っているけど、これは謙遜でもなんでもない。自分が作った映画なんて、川井くんの音楽がなかったら、屁みたいなもんだよ。それで言ったら、僕はレオーネの直系だからね。自分のことを「わたしはレオーネの直系です!」と言ってもいいくらい。

──ええっ、そんなイメージ全くなかったです。

押井 すくなくともキューブリックの直系ではない。世間では「押井守映画は理屈っぽい、能書きばっかり多い」と思われているかもしれないけど、本質においては常に快感原則を追求しているんだよ。やたらしゃべくりまくると言われているのも実は快感原則を追求しているからなのであって、ダイアローグだけが持っている快感原則というモノがあるんだよ。

──たしかに押井作品の台詞まわしには独特の魅力があります。

押井 逆に言えばアクションに意味なんてないよ。

──アクションに意味がない!?

押井 ドラマ的に言えばね。アクションをやっているあいだはドラマが停滞するだけだから。なにごとも前進しない。勝った負けたをつけるだけ。アクションシーンは、ドラマ的に言うと、本質でもなんでもない。事態がぜんぜん前進しないから。だからいつも言っているでしょ、「ダレ場が必要なんだ」とね。

──押井作品特有の「ダレ場」。ダレる時間、漂う時間、黄昏れる時間。一部ネットでは「退屈で眠たくなる時間」とも言われていますが?

押井 それはちがう。少なくとも自分にとってはダレ場もアクションも同じだけの値打ちがあると思っている。ダレ場もアクションシーンも言ってみれば祝祭なんだよ。祝祭空間を実現するための時間として機能するんだよ。だから音楽で盛り上げる必要がある。川井くんには毎回「アクションが始まったら絶対に音楽を切らないでね」と頼んでいる。そのせいで川井くんはいつも苦労するのだけど。

──ダレ場もアクションシーンも音楽が鳴り続ける時間ではありますね。

押井 アクションで音楽を切らない理由と、ダレ場がどんどん長くなっていった理由は同じなんだよ。ダレ場は最初は1分くらいだったのに、最近は5分くらいになっちゃった。「それでもまだ足んねえ」と思っている。だから『イノセンス』(04)のときは、ダレ場のなかにダイアローグシーンを挿入することまでした。ダレ場だけで映画が出来ないかということまで考えた。でもそれだと劇映画にならないけどね。

──映像と音楽の相乗効果を狙っていく。

押井 映像と音楽の相乗効果なら『2001年』にもある。だけどレオーネの場合は音楽との相乗効果を「映画の快感原則」にまで高めていった。

──なるほど。音楽との関係でいえば押井監督はたしかにレオーネに近いですね。

押井 だから、いま振り返ると「自分はつくづくレオーネの直系なんだな」と思うわけ。末裔と言ってもいい。レオーネの快感原則に共感するし、いつ見ても、何回見ても、見入ってしまう。