1968年『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』編

1960年代「マカロニウェスタン」ブーム

──『ウエスタン』が日本で公開されたのは、本国公開の翌年。1969年でした。

押井 映画館で見た。封切りで見たはずだけど、三番館だったかもしれない。「マカロニウェスタン3本立て」とかでね。SF映画はもちろんもれなく見ていたのだけど、だいたいその時代その時代のジャンルにハマる人間なんだよ。マカロニウェスタンが流行っていた頃は、どんな駄作に至るまでも全部見ていた。カンフー映画が流行っていた頃は、どうにもならない物まで全部見た。昔から、全部見ないと気が済まない。だからゲームをはじめたときも、ファミコンの、RPG と名のつくソフトは中古屋に出入りして「あんた、こんなのをやっても徒労だよ」というものまでプレイした。

──マカロニウェスタンが好きだったんですか?

押井 好きだったよ。1人で見に行っていた。語るべき相手なんていないから。マカロニウェスタンマニアなんて周りにいないからね。封切りもあったけど、二番館、三番館だよね。ジュリアーノ・ジェンマからイーストウッドどころか、フランコ・ネロから何から何まで目につく映画は全部見た。

──高校生が見る映画ではない?

押井 ないね。館内はオヤジばっかりだった。マカロニウェスタンのブームってのは、スポーツ新聞の世界だったんだよね。新作が公開されるたびにスポーツ新聞に紹介が載ったんだよ。「今度はこういうガンアクションだ」「今度はナントカ七連射だ」とかね。名前をつけるんだよ、スポーツ新聞が。プロレスといっしょで。だからオヤジの文化だった。おねえちゃんなんか1人もいない。若いヤツもいない。オヤジというか、どちらかというと、肉体労働者系。まあサラリーマンもいたけど。

──ほとんど任侠モノに近い客層ですね。

押井 客層としてはほとんど変わらないと思う。映画の構造もほとんどいっしょだから。最後は殴り込みっていうさ。多少オンナが絡んでも、それは本質にはならない。いろんなタイプの男臭い、基本的には汗とホコリと塵みたいな世界。でも任侠ほどにはスタイリッシュではない。もっとアクロバティックで、ある意味もっと快感原則に忠実。任侠映画は「耐えて耐えて」が必要なんだよね。耐えて耐えて最後に殴り込む。中盤で散々痛い目に遭わされるし。そして最後にドスぶらさげて傘さして行く。安心して見ていられるわけだよ。『水戸黄門』と同じで「パターン」だからね。マカロニウェスタンのほうは、もっと欲望自然主義というか、もっと快感原則を前面に出していた。最初っから撃ちまくる。

──マカロニウェスタンのほうが肌に合っていた?

押井 合っていたね。自分は「耐えて耐えて」が嫌いだったから。「耐えて耐えて」はプロレスの頃から嫌いだった。『ウルトラマン』も同じだよ。耐えることで見せ場を作るっていうのはね、かなり早い時期から嫌いだった。「やるならさっさとやれ」と思っていた。ラストのために溜めに溜める。『椿三十郎』(62)から何からみんないっしょだもんね。「ラス立ち」という展開は、ずいぶん前から言われつづけているけど。自分の映画でも必ずやっているのだけど。

──ラストの大アクション!押井作品のファンにもなじみ深い要素です。

押井 自分で作ってきた映画のパターンで言えば、いつも同じ構造になっている。頭にあって、普通は中間にも見せ場のアクションがあるのだけど、そして最後に、まさにラス立ちがある。自分は中間を省いた。予算も時間もなかったというところから出発したのだけど。その代わりにダレ場を発明した。これが僕の基本的な映画の構造になっている。