1998年『ベイブ/都会へ行く』編

しゃべる動物映画の系譜

押井 映画の『名犬ラッシー』シリーズ(43-51)や、テレビドラマの『名犬リンチンチン』(54-59)のように、犬が活躍する映画は珍しくないし、いまもあるんだけど、そういう動物が大活躍する映画とは別に、「動物がしゃべる映画」の系譜が海外にはあるんだよ。たとえば『ミスター・エド』(61-66)というアメリカのテレビドラマ。日本では落語家の四代目三遊亭金馬が、馬であるミスター・エドの声を吹き替えていた。人間のおっさん(アラン・ヤング)がミスター・エドを飼っていて、厩舎を持っている。アメリカには、多くはないけど、厩舎を所有して、馬を飼っている人がいるんだよ。ミスター・エドがしゃべることを知っているのは、このおっさんだけなの。おっさん以外の誰かがいると、しゃべらない。日常の些細な出来事があって、ミスター・エドが人語を理解しているとは誰も思ってないから、警戒せずに馬のそばでしゃべりまくって、その情報があとで飼い主の役に立つってだけのテレビドラマなんだけど。ミスター・エドが人を乗せて走るわけではない。厩舎にいて、しゃべるだけ。「動物と暮らしたい」だけじゃなくて、「しゃべる動物がいたらいいな」という願望があるんだろうね。僕にはないけど。『ミスター・エド』も『ベイブ』もこの系譜。

──なるほど。

押井 ただ、『ベイブ』の世界では、動物同士はしゃべるんだけど、人間はその言葉を理解できない。というか、そもそも人間は「動物がしゃべる」とすら思っていない。そういう限定世界にしたことが、この映画が成功した理由の1つであるのは間違いない。「人間としゃべらせない」ことで、「ここから先は動物たちの世界ですよ」という暗黙の了解を設けた。そのおかげで、『ミスター・エド』よりも取っ付きやすい。人間としゃべったら「嘘だろ?」と思うかもしれないけど、動物同士がしゃべっているぶんには許せるんだよね。

──『ベイブ』はリップシンクのCG技術が見事でした。

押井 技術ありきの映画なんだけど、ストーリーと両立している。ジェームズ・キャメロンの『アバター』(09)と同じ。キャメロンは、あいつは頭がいいから、地雷原のリストを、演出的にことごとく避けて作った。まず、異星人のナヴィ族を人間より大きくした。人間と同じサイズだと、情報量が足りなくて、実写のシガニー・ウィーヴァーと釣り合わないんだよ。サイズを大きくすることで、CGキャラの情報量を増やした。と同時に、ナヴィ族を人間よりも大きくすることで、それがナヴィ族に対する「畏怖」として、ストーリー的にも機能している。そういうちょっとした演出の連続技なんだけど、「なにをやったらいけないか」から、「やるべきこと」を割り出しているんだよね。

──『ベイブ』のメイキングを見ると、フレーム単位で、手作業でCG加工をしていました。

押井 当時は僕もデジタルをはじめたころだったから、興味があって、現地の人間にいろいろ聞いた。500人だったかな、600人と言ったかな、延々とリップシンクだけをやっているデジタルスタッフの大群がいるという話だった。「そうしないと成立しないですよ」ってさ。要するにソフトウェアの力じゃないんだよ。いまだったら、ある程度は自動化される余地があるんだろうけど。やっぱりね、手付けで丁寧に作っているよさは、あると思う。デジタルの走りだったからこそ、デジタルでやれることとやれないことの区別がはっきりしていた。「これだけをやればいいんだ」という意味で、CGのお手本の映画になっている。CGならなんでもできると思って調子に乗ると、シラけちゃう。CGを扱うこと自体が、実は地雷だから。金のあるなしに関係ない。CGをどう使うかで、監督やプロデューサーの「裁量」が試される。