映画だけに流れる特権的な時間
──オープニングカットのロサンゼルスの夜景にシビレた観客も多いはずです。
押井 うん。『ブレードランナー』を見に行ったあと、雑誌を買い漁って、ずいぶん情報を探した。どうやって作ったのかをどうしても知りたかったから。で、いろんなことが分かった。サーとしては、冒頭のシーンからして、ああいうふうにするつもりは毛頭なかったんだよね。
──郊外の農場のシーンから始めるつもりでいたんですよね(※この当初案は『ブレードランナー2049』で実現された)。
押井 そうなんだよ。主人公の登場を追いかけていくことで、世界全体が見えてくる構成にしたいと思っていた。でもそんなお金はどこにもなかったわけだ。だからああやって銅板を切り抜いた夜景を作って、湯気と煙と炎でボゥッと。で、主人公の登場シーンは、いきなりガード下。新聞紙を傘代わりにしてうどんを食いに行くわけだ。これが結果的によかった。いわゆるSF映画の主人公の登場シーンじゃないんだよ。雨宿りをしてさ、うどん屋の順番を待っていて、おやじに呼ばれて、カウンターに着いたら「2つで十分ですよ」ってさ。こういう登場の仕方をするSF映画を見たことがあるかって話だよね。
──妥協と商業性のバランスですね。
押井 制限されたなかで、どうやって可能なショットを撮っていくか? そしてどうやってシーンを成立させるか? その積み重ねで映画はどんどんよくなっていく。逆に予算が多すぎるとどうなるか? マイケル・ベイの映画みたいに目がクラクラする映画になってしまうか、もしくはコッポラみたいに誇大妄想映画になってしまう。映画監督が「けっこうなものを見せてやるぜ」と意気込んでも映画の観客は別にけっこうなものを見たいんじゃなくて、魅力的なシーンや、魅力的なキャラクターが見たいんだよ。だから、仕掛けばかり見えている映画って実はたのしくない。一部のマニアはそれでいいのかもしれないけど。
──どういう画を撮り、どういうふうにキャラクターを活かしていくか?
押井 スゴい画を撮るって意味ではマイケル・ベイだっていい仕事しているんだ。しかも白昼堂々と。ベイはほとんど真っ昼間にやっているからね、なんの芸もなく、すべて引きの画で。『トランスフォーマー』しかり、『パール・ハーバー』(01)しかり。全体が見えるところにカメラを置く。だから観客は神の視点で、見たいものをすべて見るわけだ。これが映画的にいいのかっていうと、そこには臨場感がないんだよね。それは『ブレードランナー』と比べればすぐ分かる。
──リドリー・スコットのユニークさについて教えてください。
押井 サーの映画には「情感」がある。『エイリアン』を撮ろうが、『ブレードランナー』を撮ろうが、独特の情感に満ちている。情感でいえば『ブレードランナー2049』も「情感」に満ち満ちているよね。流れる時間が似ている。だからドゥニ・ヴィルヌーヴを監督に選んだんだなと納得した。最初の『ブレードランナー』より流れる時間がもっと濃密になっていた。それは画がデカくなったせいなのか、画の解像度が上がったせいなのか、それとも監督の演出のリズムのせいなのか、たぶん全部なんだろうけど。『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』に流れる重たい時間というものは、映画じゃないと実現できない。僕が大好きな時間。「だから映画を見ているんだ。だから映画が好きなんだ」と気づく瞬間。『ブレードランナー』のなかで流れる時間は、一生見ててもいいぐらい気持ちいいんだよね。映画が醸し出す独特の「映画のなかだけで成立する時間」というのかな。これは映画だけの特権的な時間だと思うよ。
──2時間を2時間以上に感じるというやつですね。
押井 「あっという間の2時間だった」 の逆。永遠に感じるほど心地よい、映画だけが持つ特権的な時間。だから何も起きなくていい。逆に起こしたらいけないんだよ。淡々と飯を作ったりね、それだけでいい。これこそが映画の特権的な時間なんだから。それを教えてくれたのが『ブレードランナー』だった。
次回は1988年の1本です!