1988年『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』編

ロボットアニメが到達したひとつの極点

──『ガンダム』シリーズにおける『逆襲のシャア』の位置づけとしては、どう評価されますか?

押井 宇宙世紀という設定が『逆襲のシャア』で初めて生きたと思った。それまでは要するに連合軍とドイツ軍の戦いを模していただけだよね。ジオン軍なんて誰がどう見てもドイツ軍でしょう。出てくる連中から兵器の端々に至るまで、ドイツ軍のデザインであり、ドイツ軍の設定そのままだよ。例えば、単機としてどれだけ優れていてもダメだっていうこと。試作品の山を築いて、いっぱい種類を作りすぎたせいで負けた、とかね。アムロたちがいる連邦軍のデザインのパッとしなさは、やっぱりそのまま連合軍だよ。ナチスのままやるわけにはいかないからジオン軍という名前を考案し、連合軍を連邦軍に変えた。それだけのことだと思っていたら、富野さんはそれ以上の展開を考えていた。小惑星をモビルスーツで押し返そうとするクライマックス。あのシーンこそ宇宙世紀だから実現できたのであり、第二次世界大戦の呪縛から解き放たれている。地球に落下していく小惑星をアムロ機と量産機がバーニアを吹かしまくって、みんなで支えて押し返そうとする。爆装している量産機もいるからヤバいだろうっていう。そのクライマックスはリアルじゃないという人もいるかもしれないけど、ミリタリー的には逆にシビれるシーンなんだよ。「すごいな、この人」って。アムロに「爆装している機体だってある」と言わせた上で、まわりの機体をどんどん爆発させていく。いつもは理性的な富野さんが、あそこのシーンではガンガンやっている。

──アニメとしてのケレン味は、どうでしょう?

押井 ケレン味は少ないね。富野さんはアニメーション特有の快感原則を好まない人なんだよ。現場のアニメーターに聞いたことがあるんだけど、ドッカーンッみたいなさ、豪快にすっ飛ばした動画の描きかたをすると「直せ。ちゃんと動かせ」と言ってくるらしい。無重力空間の描写と重力の表現にこだわる人だよね。そういう意味ではアニメ的なケレン味が少ない監督。だけど『逆襲のシャア』は、小惑星アクシズを押し返す場面がまさにそうだけど、場面づくりや描写、あるいはシチュエーションにケレン味があふれている。だから本当にいい映画だよ。

──なるほど。

押井 いつもは本音を隠している、そういう監督としての立ち振る舞いに僕は共感するし、とても参考にさせてもらった。その富野監督という人間の「本音」や「苦労人として隠してきた部分」が『逆襲のシャア』には出ている。真っ正面から富野さんが本音を描いた。そういう記念すべき作品であり、唯一の映画。『逆襲のシャア』を語るってことは「富野さんを語ること」と同義なんだよ。だけど、富野さんのことが好きでも嫌いでも、この『逆襲のシャア』はオススメだね。日本のロボットアニメが到達したひとつの極点だよ。たとえガンダムやロボットアニメに興味がなくても、ドラマとして、人物として鑑賞できる作品のはずだよ。

──映画が完成してから30年経ちましたが?

押井 いまの人が見ると、ものすごく魅力がある作品だと思う。「世の中は消えてなくなるかもしれない」、あるいは「世の中なんて消えてなくなれ」と思っている人も多いはずだから。だけど富野さんは「悪意」だけで作ってはいないんだよね。「人類を粛正してやる」という台詞は、当時の富野さんが「絶望」していたから出てきた言葉なんだよ。つまり、突然キレてナイフを振り回す悪意とは異なる。だからこそ、現代社会に閉塞感をいだいていたり、絶望している人にとっては、救いになる映画かもしれない。同時に映画としてカタルシスもちゃんとあるから。いろんな意味でオススメしたいし、大好きな作品です。

書籍版にはロングバージョンを収録予定です。おたのしみに!!

次回は1992年の1本を取り上げます!!

押井守の映画50年50本