1972年『ラストタンゴ・イン・パリ』編

世界でも有数の「誤解されている監督」


──ベルトルッチの監督としての主題はなんだったのでしょうか?

押井 問題はそこだよね。「政治的なテーマ」を持った監督というイメージに、最期まで引きずられて、そこから出られなかったルイ・マルみたいな監督とはぜんぜん違うんだよ。ベルトルッチにとっては「政治的挫折」や「エロス」は、出発点としての借り物だったんじゃないのか。最近そう思うようになった。予感じゃなくて、確信としてそのことに気づいた。たしかに『暗殺の森』は有名だし、誰が見ても堂々たる政治映画だよ。だけどベルトルッチはそこに執着しなかった。

──テーマを持たなかった監督ということですか?

押井 なにかを語る手段として映画を手に入れたという監督ではないはず。最初から「映画という表現形式」自体に興味があった人。もしくは「映画監督」という存在自体に興味があった人。ベルトルッチの「固有のテーマ」を探してもたぶん無駄。「映画」で育って「映画」と心中する男。テーマなんて要らねえよって。その時代その時代で、プロデューサーの要求に応じて、舞台も役柄もストーリーも全部変わってしまってぜんぜん差し支えない。だから母国のイタリアに固執せずに、パリで撮ったんだよ。

──なるほど。

押井 ガキの頃から映画にハマった男という意味では、スピルバーグと一緒だよ。エンタメの大魔王になるか、アート系かという方向性の違いはあるけど、それぞれの極右に行った。映画監督には「映画自体」で自己完結するタイプがいるんだよ。クエンティン・タランティーノも同じだよね。タランティーノが面白いのは、彼の場合はカンフー映画と東映映画とアニメーション。最初からオタクだったわけだ。そこがスピルバーグと異なる。少年なんて出てきやしない。スピルバーグは子どもしかテーマがないんだけど、タランティーノの場合はヤクザ。アウトローばっかりじゃん。しかも下品で、与太話が大好き。

──ベルトルッチがスピルバーグやタランティーノと同じだとは、慧眼です。

押井 ベルトルッチは、たぶん、世界でも有数の「誤解されている監督」だよ。そしてその誤解された部分、自分自身の神話を、けっこう上手く使った監督なんだろう。ベルトルッチのようなアート系の監督は、プロデューサーに人気がないと絶対に映画を撮れない。ゴダールがその典型だよね。そういう意味でいえば成功者。監督は、「いっぱい撮ったやつ」が勝ちだからね。大小関係なく「どれだけ映画を経験したか?」だけ。実際に監督しないと、「映画を経験した」ことにはならない。映画を何万本も見ても、映画の正体に触れる機会にはならないんだよ。

──映画を撮りつづけたベルトルッチに着目すべきなんですね。

押井 ベルトルッチって意外にしぶとく撮ったよね。「しぶといな、このおっさん」ってさ。そういうことを考えるようになったきっかけの監督かな。きっかけになった、というか、映画の正体に近づいてから、やっと理解できた監督の1人。50年近く経って、ベルトルッチのことを回帰的に理解した。だから『50年50本』の1本に値する監督だし、値する1作だよ。

押井守の映画50年50本