都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いてあった
だけども問題は今日の雨 傘がない
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昔、「傘がない」の歌詞が本当に好きだった。自殺する若者の増加のニュースより「傘がない」「きみに会いに行かなくちゃ」という個人の感情が優先されていく、そんな歌詞のようだけど、私にはこの歌の「私」もまた、その報道の内側にいるように思えて、そのことが堪らなく好きだったのだ。
「私」も死のうとしてるとか、そんなことではなくて。この歌が描いているのはむしろその報道が「自殺者」を一括りにすることで、塗りつぶしてしまった「個人の顔」であるように思えたのだ。
「自殺する人」がそこにいるとして、その人にとって、自分はニュースの「自殺する若者」の一部なのだろうか。その人にとっては、「私」はいつも「私」でしかなくて、それは死んだ後だって変わらないんじゃないのか。
死んでしまった後では「自殺のニュース」を見ることすらない。たとえ当事者でもそのニュースは「その人のこと」を語るものにはならない。「生きている時を止める」ということがその人にとっては選択の全てで、社会問題として語られる「自殺のニュース」は本人にはなんの関係もないことだ。
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ
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そんなニュースよりも傘がないことが問題だ、とすることに「そんなことが問題なの?」と言いたくなる時、「そんなことで自殺するの?」「そんなことで絶望するの?」という、他者がまた別の誰かの選択を否定する言葉を思い出す。なぜ、他人が納得する理由しか、許されないのだろう、と思う。実際に死んでしまう人がいたなら、その人の選択は、もう誰にも何も言えない。それは正しいとか間違っているとかそんな討論のテーマになるべきものではなく、起きてしまった事実だからだ。
「君に逢いに」行こうとすることは、ニュースになるような話題でもなく、だから誰もなにも言わないが、本当は「死」もその延長線上にある。誰も何も言わないで、「他人の人生」に関わることなくただ無関係に生きてきたのに、ニュースになるような重大な出来事が起きた瞬間、まるで審査員にでもなったかのように、その人の人生の妥当性を判定できると思い込んでいる人はいる。「そんなことで自殺するの?」と言えるくらいあなたはその人に関わってきたのだろうか。私は、自殺するべきではないとか、自殺は自由だとか、そういうことが言いたいのではなくて、ただ、そんな大きな選択になった途端、他人の選択の正しさや妥当性が己にわかると思い込んでいる人が、乱暴でとても怖いなと感じている。
「傘がない」は、一人の個人の人生の話でしかない選択を、その全てを、もう一度「個人」のものに戻していく歌に思えた。本人にしかわからない重大性、本人にしか見えない「確信」だけが歌詞になっている。誰かを説得するために言葉を捻り、正当な理屈をこねるのではなく、ただ「私はそうしたくて、それを選ぶしかなかったのだ」というまっすぐな確信に突き動かされる瞬間を、人はきっと何度か経験していて、この歌詞はその白い光のような確信を思い出させる。少なくとも、私はそうだ。誰にもわからないかもしれないけど、私はそうしたかったのだ、としか言えない瞬間が過去にいくつもあった。その瞬間の、風に追われて、走り出してしまうような感覚を、この歌は思い出させてくれている。
そんなことが理由なの、と第三者が言いたくなるようなことで死ぬ人もこの世にはきっといるのだろう。でも、そんなことが理由なの、とその人に言えるほどその人の人生と深く関わることが、そもそもとてつもなく難しいって私は思う。いつだって全ての人生の選択は本人の中にある確信が全てだ。そうして、それを本当は多くの人が知っているはず。それを思い出して、それから、その人と一人の人間として、他者として向き合って、その人の選択を見つめることしか人にはできない。確信はその人の心そのものだから。でもその人の目を見て、語ろうとするあなたの確信も、あなたの心そのものだから。一つの心として、その人と向き合って、正しさも妥当性もない、ただ血の通った言葉を交わすことしかできないのだ。でも、それだけは人にはできる。
つめたい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろう?
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死なないでほしい、と思う時、どうしてそこに妥当性を持ち出したくなるのだろうか。死なないでほしい、と思う時、その人の選択を取り上げるのではなくて、その人の手を、自分の手でとれたらいいのにと思う。「そんなことで」と言いたくなることで、死ぬ人はいるだろう。そうして、「そんなことで」と言いたくなることで、死を思いとどまる人もいるだろう。今日は桜が咲いているのを見つけたからと、やめる人もいるだろう。あなたの手のひらの暖かさは、そんな桜にはなるだろう。
自殺が増えているという報道より、この歌のこの価値観の方が、ずっと人の死を思いとどまらせているように私には思えた。きっとそんな意図で書かれた歌詞ではないのだけれど、それでも、手のひらの温もりがある歌詞だった。言葉は人が書くもの。だから、人の手のぬくもりがやどるもの。絶対的な正しさを提示することなどできないけれど、でも、この世界にあたたかい手があることを、言葉は誰かに伝えていける。
※井上陽水「傘がない」