Ch.1 働けどなお、わがくらしミドルにならざり ブルシット化で変質するアメリカの格差社会(後編)

netflix.jpgⒸPiyocchi

アッパーミドルの告白

ブルシット化によって変質を続けるアメリカの格差社会。ホワイトカラーは形骸化した業務に疲弊し、ブルーカラーは製造業の停滞により職を失う。インフレが進み雇用も安定しないなか、公的な支援プログラムまでもがブルシット化し、人々はみずからのなすことに、もはや誇りといったものを見出せなくっていく──。

ドキュメンタリー・シリーズ『ワーキング』同様、〈ハイヤー・グラウンド・プロダクションズ〉が手がけ、ネットフリックスで配信されているドキュメンタリー映画『アメリカン・ファクトリー』(2019、アカデミー賞受賞)には、ゼネラルモーターズが撤退した後のオハイオの街で、中国企業のもとで過酷な労働を強いられるアメリカ人の姿が描かれているが、こういった窮状に対する不満が二度にわたるトランプ政権の誕生の一因となったのは、たぶん間違った分析ではないのだろう。

けれども、惜しくも2020年に他界したグレーバーが2018年の段階で総括しているように、一部の有権者の不満は「ブルシット=有害なでたらめ」なかたちによって表明され、そしてトランプ政権の誕生という誤った選択に結びついてしまった。

〔トランプの当選は、〕特定の有権者たちが政治的な支配階級を揶揄するために仕掛けた実践的なジョークだ。なにしろ、彼らの主張というのはこうだからだ──「私たちの目に映るお前たちの姿は、ドナルド・トランプを見ているお前たちの目に映っているものの姿と同じ......つまり、トランプはお前たちなんだ。強欲で、ナルシストで、腐り切っている......。トランプはただ、そのことに正直なだけさ」(※1)

アナーキストを自任するグレーバーは、オバマの政策についても「ブルシット・ジョブの維持」に過ぎないと批判してみせたが、(※2)対するトランプ政権の誕生については、もはや「実践的なジョーク」とあきれてみせる以外に術はないようだった。

一方で、どうせアメリカの現状を憂うのならば、より誠実で、よりパーソナルな声が聞きたいと思うのも人情である。2016年夏、そうした多くの人々の思いが一冊の本をベストセラーに押しあげた。J・D・ヴァンスの回想録『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(邦訳2017)である。

 私の名前はJ・D・ヴァンス。まずは告白したいことがある。
 読者の皆さんがいま手にしているこの本が存在していることに、じつは私自身、あまりぴんときていないのだ。  
 本書(英語版)の表紙には「メモワール」(回想録)と記されているが、現在31歳の私は、これまでの人生で何か偉業を成し遂げたわけではない。〔中略〕
 私は上院議員でもなければ、州知事でも、政府機関の元長官でもない。10億ドル規模の会社の創業者でもなければ、世の中を変える非営利団体を立ち上げたわけでもない。やりがいのある仕事に就き、幸せな結婚をして、気持ちよく暮らせる自宅があり、元気のいい犬を2匹飼っている。それだけの人間だ。(※3)

草稿時に「メイドの告白」と題されていたランドの回顧録にならえば、(※4)ヴァンスがここで描き出そうとしている自画像は、さながら『アッパーミドルの告白』とでも呼ぶべきものだ。だが、それにしてもなぜ「アッパーミドル=それだけの人間」の回顧録がベストセラーになったのか。その答えは、上の引用に続けて「ラストベルト」という言葉が言及されるにいたって明らかになる。

私は「ラストベルト(さびついた工業地帯)」と呼ばれる一帯に位置する、オハイオ州の鉄鋼業の町で貧しい子ども時代を送った。記憶をどれだけさかのぼってみても、当時から現在にいたるまで、その町は、仕事も希望も失われた地方都市であることに変わりはない。(中略)
 私自身も、将来に望みのない子どものひとりだった。高校では落第しかけ、この町では誰もが抱く怒りやいらだちに屈しかけていた。この町の人々は、現在の私を、まるで天才でも見るような目で眺めている。彼らにとって、私がいまの職業に就いたことや、アイビー・リーグの名門大学院を修了したことは、非凡な人物にしか達成できない偉業だからである。(※5)

もちろん、ヴァンスはここで、自身のことを(単なる)「非凡な人物」であると自慢したいわけではない。『メイドの手帖』のランドと同様に、彼もまた現代アメリカの不合理な社会システムを告発し、かつての自分と同じ境遇にある人々への救済の道を探るべく、あくまでも「それだけの人間」として回想録をしたためたのだ。

無名の男性によって書かれた『ヒルビリー・エレジー』。それは瞬く間に全米でベストセラーとなり、ロン・ハワード監督による映画化まで決まった。エッセイストの渡辺由佳里は、こうしたアメリカにおける『ヒリビリー・エレジー』ブームの始まりを、次のように解説している。

こんな環境で高校をドロップアウトしかけていたヴァンスが、イェール大学のロースクールに行き、全米のトップ1%の裕福な層にたどり着いたのだ。この奇跡的な人生にも興味があるが、ベストセラーになった理由はそこではない。  
 ヴァンスが「Hillbilly(ヒルビリー)」と呼ぶ故郷の人々は、トランプのもっとも強い支持基盤と重なるからだ。多くの知識人が誤解してきた「アメリカの労働者階級の白人」を、これほど鮮やかに説明する本は他にはないと言われる。(※6)

文庫解説として転載された渡辺の文章は、2016年11月の段階で「ニューズウィーク」の日本版オフィシャルサイトに寄稿されたものであり、その後のヴァンスの活躍(と変節)はいまだ誰の予想するところでもなかった時代の記録だ。当時、突如として有力な大統領候補となったトランプの影響力は未知数であり、彼の支持者たちの正体もまたミステリーであった。そうした「謎」を解き明かすための手がかりとしても、ヴァンスの回顧録は必要とされたのである。

哀歌を忘れた副大統領

『ヒルビリー・エレジー』の刊行から4年がたった2020年11月。2期目をうかがうトランプが大統領選挙に敗れた同じ月に、ネットフリックスは、映画『ヒルビリー・エレジー―郷愁の哀歌―』の独占配信を開始した。そのタイミングは、商業的には決して正しいものではなく、英国ガーディアン紙のレビューには「いかにしてヒルビリー・エレジーは「リアル」なアメリカを描こうとし、そして失敗したか」という見出しすら掲げられる始末だった。(※7)

だが、それからさらに4年がたち、映画『ヒルビリー・エレジー』は、突如として世界の注目を集めることとなる。というのも、あのJ・D・ヴァンスが、トランプから副大統領候補に指名されたのだ。

ロサンゼルス・タイムズが報じたところによると、候補者指名の直後、同映画の視聴回数は1,180%以上も上昇した。(※8)つまるところ、人々は「ヒルビリー」の実態を知るためではなく、ヴァンスという人物の正体を知るために『ヒルビリー・エレジー』にアクセスし始めたのであろう。

もちろん、映画それ自体は、4年前から何一つ更新されていない。だが、2022年に上院議員に立候補したヴァンスは、あろうことか遅れてきたトランプ主義者に転向していた。かつてその回顧録で、「労働者階級から知的職業階層に移った」自分は「家族や友人の人種差別的傾向について心配している」などと述べていた人物が、(※9)この頃にはもう、バイデン政権が推し進めてきた「多様性、公正性、インクルージョン(DEI)」プログラムの廃止を議会に提出するまでになっていたのである。

そして誕生した第二次トランプ政権は、2025年1月、ヴァンスが提案してきた「DEI」プログラムの廃止を正式に宣言する。こうした異常事態を目の当たりにして、映画『ヒルビリー・エレジー』の出演者たちもまた戸惑いと憤りを隠せなかった。

ヴァンスの祖母役でアカデミー賞にノミネートされたグレン・クローズは、同じ役柄でゴールデンラズベリー賞という年間最低映画賞にもノミネートされた。ただし、当時のヴァンスはまだ転向していなかったこともあり、同作についてクローズはただ、「家族をひとつにまとめるのは、世界のどこであっても、大概はおばあちゃんなのよ」という政治的にもニュートラルなコメントを残すにとどめている。(※10)

だが、ヴァンス本人がアメリカ最大のトランプ支持者となってしまった今、映画『ヒルビリー・エレジー』への出演というキャリアは、クローズにとって悲しむべきものとなってしまった。ニュースサイト「ビジネス・インサイダー」に掲載された、第二次トランプ政権に対するクローズのコメントを読んでみよう。

ヴァンスの回想録をもとにしたロン・ハワード監督作品『ヒルビリー・エレジー』の撮影時に、クローズはヴァンス一家とも比較的友好な関係を持ったはずだが、〔政権交代から1か月のうちに〕新政権が着手してきた政策について、女性の権利と同性婚を公けに支持する彼女は「困惑している」ともらす。
 「この国はこうであってはならないと思うんです」と彼女は本サイトの取材に答える。「でも私も多くの歴史書を読みましたし、1930年代のドイツで何があったかも知っています。そして私たちアメリカは、同じことを起こしてはなりません。私たちは間違っているんです」(※11)

「取り残された白人」たちのコミュニティーから身を立て、ミドルクラスからアッパーミドル、そしてさらにその上へ......と、現代アメリカの「クラス」を駆け上っていったJ・D・ヴァンス。ヒルビリーと呼ばれる人々に教育と雇用の機会が必要であると訴え、共和党の移民政策に反対してきた彼は、(※12)いつしか「ミドルクラスやアッパー・ミドルクラスの白人家庭は、子どもを"トランスジェンダー"にしなければ有名大学に進学させられない」といった差別発言を繰り返す、薄っぺらなトランプ主義者となった。(※13)

そうしたヴァンスの豹変ぶりを根拠にして、彼の映画も回顧録もすべては結局「ブルシット」に過ぎなかった、と断罪するのは簡単だろう。けれども、グレーバーの著書はもちろんのこと、クイズ番組『ダマすが勝ち! ブルシット』も教えてくれたように、21世紀の格差社会では「欺瞞に満ちたでたらめ」こそが利益を生むから油断できない。いったい、私たちはどんな思いでこの非情な現実に向き合い、そして希望を見出すべきなのか。

映画『ヒルビリー・エレジー』でヴァンス役を演じたガブリエル・バッソは、みずからの出演を悔やんでいるかと質問され、苦笑いのうちにこう答えている。

〔ヴァンス役については〕後悔していない。だって当時はまだ、彼は政治家じゃなかったんだ。それじゃまるで、誰かさんと中学の同級生だったことを後悔していますか?と聞くようなものじゃないか。そんなのただ知り合いだったってだけのことだろ。人間てのは、別の誰かの人生の一部でもあるんだから......。(※14)

私たちはみずからの人生の主役だが、一方で、誰かの人生の脇役でもある。もちろん、主役は脇役に気を配り、脇役は主役を支えてあげるべきだろう。ドラマ作りの基本でもあるこうした姿勢は、ブルシット化する格差社会を正していくのにも有効であるはずだ。

主役としての「持てる者」と脇役としての「持たざる者」。そんな区分は、やはり間違っている。ブルシット化する格差社会にあって、すべての人間は等しく「主役」であり「脇役」でなくてはならない、といった理想を語るためにも、私たちはより多くのドラマと、そしてドキュメンタリーを見続けていかなければならないのだ。

(Ch.1 終わり)

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(※1)https://www.youtube.com/watch?v=CEWwSgYAiMI
(※2)グレーバー 210.
(※3)J・D・ヴァンス『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』関根光宏・山田文訳‎、光文社、2017、Kindle.
(※4)https://www.umt.edu/news/2021/10/102221maid.php
(※5)ヴァンス、Kindle.
(※6)渡辺「解説」『ヒルビリー・エレジー』Kindle.
(※7)https://www.theguardian.com/film/2020/nov/30/how-hillbilly-elegy-tries-and-fails-to-show-the-real-america
(※8)https://www.latimes.com/entertainment-arts/story/2024-07-17/hillbilly-elegy-jd-vance-netflix-movie-streams-book-sales
(※9)ヴァンス、Kindle.
(※10)https://www.today.com/popculture/glenn-close-reacts-hillbilly-elegy-oscar-nomination-t211739
(※11)https://www.businessinsider.com/glenn-close-trump-vance-administration-hillbilly-elegy-response-2025-1
(※12)https://www.cnn.co.jp/usa/35224024.html
(※13)https://edition.cnn.com/2024/10/31/politics/vance-transgender-college-admissions/index.html
(※14)https://www.youtube.com/watch?v=lmW3SYkKLqg