1998年『ベイブ/都会へ行く』編

動物がしゃべることの違和感を克服

いよいよ書籍の出版が8月に迫った『押井守の映画50年50本』から、今回は1998年の1本をピックアップ!! 押井監督が選んだ作品は、なんとジョージ・ミラー監督の『ベイブ/都会へ行く』!! 愛犬家の押井監督だからこその鋭い考察は必読です!!

──押井監督は『ベイブ』のTシャツをお持ちなのですよね?

押井 仕事でアメリカに行ったときに、ユニバーサル・スタジオで買った。映画スタジオのユニバーサルではなくて、テーマパークのほうのユニバーサル・スタジオのことね。あそこで売っているという情報を聞きつけたので、『ベイブ』のT シャツを買うためだけに入場して、買って、10分で帰った。アトラクションに興味なし。「10分で出てきたのは、あんただけだよ」と言われた(笑)。それくらい『ベイブ』に入れ込んでいた時期があったんだよ。

──それは今回の『ベイブ/都会へ行く』のTシャツですか?

押井 ちがうよ。1本目の『ベイブ』(95)のTシャツ。クリス・ヌーナンが監督した1本目は、誰もが認める大傑作。ジョージ・ミラーにバトンタッチした2本目の『ベイブ/都会へ行く』は......問題外(笑)。

──えっ、でも、1998年の1本として選ばれていますよね!?

押井 台詞に合わせて動物の口をCGで動かしてみせた「リップシンク」の技術は両作とも素晴らしかったから、2本セットで語るべき映画ではある。と同時に、1本目と比較することで、なぜ2本目がダメなのかが分かる。

──『ベイブ/都会へ行く』は、井戸が壊れて、主人公が旅に出て、仲間を増やして、戻ってくる。そして最後に井戸を直して、水が溢れる。ジョージ・ミラーの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15)の展開に共通する、ミラーらしさを感じる映画ですが?

押井 街に行っちゃった時点で、ダメだと思った。子ブタのベイブが街に行っちゃうと、途端に「造り物」感が出てしまう。牧場の風景だからこそ、動物たちがしゃべっていることを許容できる。1本目は、計算し尽くされた映画だった。「なにをやったらいけないか」から出発して、「やるべきこと」を割り出していた。

──どういう意味でしょうか?

押井 映画って、なにをやってもいいと思いがちなんだけど、実は、地雷原の山なんだよ。その地雷を1つでも踏むと、途端に嘘っぽくなってしまう。ファンタジー映画やSF映画だけじゃなくて、戦争映画や怪獣映画も同じなんだよ。うちの奥さんは、SFやファンタジーに興味がない人なんだけど、『ロード・オブ・ザ・リング』3部作(01-03)や『ハリー・ポッター』シリーズ(01-11)は、テレビでやっていると必ず見ちゃう。「ちゃんとしている映画は面白いわね」って。奥さんが言う「ちゃんとしている」という言葉の中身は、僕に言わせると、「地雷を踏んでいない」ということ。地雷原のリストを作って、それらを避けるようにして作った、周到な映画なんだよ。だから、1本目の『ベイブ』がなぜ成功したのかについては、いくつか理由があるはずだと思って、見た当時かなり熟考した。「動物がしゃべる」という非現実を舞台にして、その違和感のハードルをいかに越えていったのかは、考察に値する。

押井守の映画50年50本

しゃべる動物映画の系譜

押井 映画の『名犬ラッシー』シリーズ(43-51)や、テレビドラマの『名犬リンチンチン』(54-59)のように、犬が活躍する映画は珍しくないし、いまもあるんだけど、そういう動物が大活躍する映画とは別に、「動物がしゃべる映画」の系譜が海外にはあるんだよ。たとえば『ミスター・エド』(61-66)というアメリカのテレビドラマ。日本では落語家の四代目三遊亭金馬が、馬であるミスター・エドの声を吹き替えていた。人間のおっさん(アラン・ヤング)がミスター・エドを飼っていて、厩舎を持っている。アメリカには、多くはないけど、厩舎を所有して、馬を飼っている人がいるんだよ。ミスター・エドがしゃべることを知っているのは、このおっさんだけなの。おっさん以外の誰かがいると、しゃべらない。日常の些細な出来事があって、ミスター・エドが人語を理解しているとは誰も思ってないから、警戒せずに馬のそばでしゃべりまくって、その情報があとで飼い主の役に立つってだけのテレビドラマなんだけど。ミスター・エドが人を乗せて走るわけではない。厩舎にいて、しゃべるだけ。「動物と暮らしたい」だけじゃなくて、「しゃべる動物がいたらいいな」という願望があるんだろうね。僕にはないけど。『ミスター・エド』も『ベイブ』もこの系譜。

──なるほど。

押井 ただ、『ベイブ』の世界では、動物同士はしゃべるんだけど、人間はその言葉を理解できない。というか、そもそも人間は「動物がしゃべる」とすら思っていない。そういう限定世界にしたことが、この映画が成功した理由の1つであるのは間違いない。「人間としゃべらせない」ことで、「ここから先は動物たちの世界ですよ」という暗黙の了解を設けた。そのおかげで、『ミスター・エド』よりも取っ付きやすい。人間としゃべったら「嘘だろ?」と思うかもしれないけど、動物同士がしゃべっているぶんには許せるんだよね。

──『ベイブ』はリップシンクのCG技術が見事でした。

押井 技術ありきの映画なんだけど、ストーリーと両立している。ジェームズ・キャメロンの『アバター』(09)と同じ。キャメロンは、あいつは頭がいいから、地雷原のリストを、演出的にことごとく避けて作った。まず、異星人のナヴィ族を人間より大きくした。人間と同じサイズだと、情報量が足りなくて、実写のシガニー・ウィーヴァーと釣り合わないんだよ。サイズを大きくすることで、CGキャラの情報量を増やした。と同時に、ナヴィ族を人間よりも大きくすることで、それがナヴィ族に対する「畏怖」として、ストーリー的にも機能している。そういうちょっとした演出の連続技なんだけど、「なにをやったらいけないか」から、「やるべきこと」を割り出しているんだよね。

──『ベイブ』のメイキングを見ると、フレーム単位で、手作業でCG加工をしていました。

押井 当時は僕もデジタルをはじめたころだったから、興味があって、現地の人間にいろいろ聞いた。500人だったかな、600人と言ったかな、延々とリップシンクだけをやっているデジタルスタッフの大群がいるという話だった。「そうしないと成立しないですよ」ってさ。要するにソフトウェアの力じゃないんだよ。いまだったら、ある程度は自動化される余地があるんだろうけど。やっぱりね、手付けで丁寧に作っているよさは、あると思う。デジタルの走りだったからこそ、デジタルでやれることとやれないことの区別がはっきりしていた。「これだけをやればいいんだ」という意味で、CGのお手本の映画になっている。CGならなんでもできると思って調子に乗ると、シラけちゃう。CGを扱うこと自体が、実は地雷だから。金のあるなしに関係ない。CGをどう使うかで、監督やプロデューサーの「裁量」が試される。

動物映画の難しさ

──ストーリー内容については、いかがでしょう?

押井 1本目の『ベイブ』で、牧羊犬のボーダーコリーに「あなたの仕事は食べて太ること」と諭される場面がある。要するに「ブタはいつかは食べられちゃうんだからね。あなたはハムにされるために生きているんだからね」と言われて、主人公のベイブは「えっ、そうなの!?」と驚く。実は、人間と動物が付き合うことの本質から出発している物語なんだよ。だから、本筋に関しては、僕は異論がある。賢い動物は尊重するけど、そうじゃない動物はシメられていいのか? お利口なブタであることを証明するために、うまく羊をまとめてみせなさないってさ。人間目線の物語になっている。

──言われてみれば、そうですね。

押井 でも、それを感じさせない映画になっている。じいさんも満足するし、ばあさんは泣いて喜ぶし、まわりの家畜たちもやれやれよかったと、みんながハッピーになって終わる。人間目線の違和感をいだかせずに、最後まで押し切って、感動を呼ぶ。うまいよね。じいさんとばあさんを演じた役者が、うまいんだよ。

──ジェームズ・クロムウェルと、マグダ・ズバンスキーですね。

押井 欲を感じさせない老夫婦だから成立している。これで、欲をかいているギラギラした飼い主だったら、賢いもヘチマもあるかで、速攻でハムになって終わりだよ(笑)。だから、キャスティングで成功している映画であるのも間違いない。こういう『ベイブ』みたいな映画が、日本で成立するんだろうか? ということもよく考える。「いまだったら、吉田鋼太郎さんかな」とかね。吉田鋼太郎さんがもうちょっと歳をとれば演じることができるかもしれない。いずれにせよ、重鎮を連れてこないと成立しない映画だけど、日本映画でヘヴィ級の役者を連れてくることができるだろうか? 動物相手に芝居をするだけでも大変だし、「どんな俳優も子どもと動物には勝てない」という言葉があるけど、観客は子ブタを見るに決まっているんだから、動物映画に出演することを俳優は普通はみんな嫌がるよ。そして動物映画自体の難しさもある。人間と動物をどう共演させ、どう共存させていくか。日本国内で大ヒットした『南極物語』(83)もそうだし、動物写真家の岩合光昭さんが監督した劇映画の『ねことじいちゃん』(19)も同じだよ。猫の映像を撮らせたら抜群の岩合さんも、ドラマの部分で苦戦していた。動物映画にはキモがあるんだよ。そこをはずすと、かすりもしない。「これだったら人間は要らないんじゃない? ドラマは要らないんじゃない?」ということになってしまう。『ベイブ』は、奇跡的に成功しているよ。ジェームズ・クロムウェルが演じたじいさんを要らないと思う観客はいないからね。映画化するにふさわしい原作を見つけてきたジョージ・ミラーの嗅覚には感服する。

押井守の映画50年50本

「章立て」という優れた手法

押井 映画の構成を「章立て」にしたことも、成功の要因だと思った。

──原作の児童文学に準拠して、章立てにしただけじゃないんですか?

押井 章立てにすることで、「絵本の世界ですよ」ということを主張する。こういう不思議な世界への抵抗感をなくしていくための仕掛けになっている。章立てにして、分節化することで、はじめて成立する映画ってのがあるんだよ。クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(94)も章立てだった。僕も『アサルトガールズ』(09)と『ガルム・ウォーズ』(16)でやったけど。テンポもよくなるし、優れた手法だと思っている。だけど、日本では嫌がられるよね。プロデューサーに提案しても、だいたい却下される。そういう「外装」を施さないことが、「大作の風格」だと思い込んじゃっているよね。

──なぜなんでしょう?

押井 不思議だよね。アメリカの映画で一時期流行った「何時何分、どこそこ」というテロップを出すことも嫌がられた。アメリカ映画は、観客を飽きさせないように5本も6本もストーリーラインを同時に引いて、それをさばくためにテロップを出すんだよね。

──「CIA本部」という表示ですよね。

押井 あれを逆に「ホームドラマ」でやったら面白いんじゃないのか?

──「AM09:00 自宅」とかですか?

押井 そうそうそう。奥さんと、旦那と、娘と、息子と、犬と、猫のストーリーラインで。いつかやってみたいな、と思っているんだけど。まあ、それはともかく、この『ベイブ』2作に関しては、CGの使用方法も的確だったし、章立てにしたことも、キャスティングも大成功だった。子ブタは、何十匹も用意したんだろうけど、前髪を塗って立たせることで、それをベイブの特徴とした。子ブタだから成立するんだよね。『刑事コロンボ』(68-03)のバセットよりも簡単だもん。僕もバセットのオーナーだけど、バセットの飼い主だったら、すぐ見分けがつくよ。『刑事コロンボ』は、出てくるごとに全部ちがうバセットだった(笑)。「舐めんな」と思ったもん。バセットの柄なんて似たり寄ったりだと思ったら大間違いだよ。同じ柄のバセットなんて1頭もいないからね。

──笑。

押井 『ベイブ』も、いまだったらCGでサイズを変えたりするんだろうけど、その手間暇を考えたら、子ブタのストックを用意しておいたほうが簡単だろうと思う。牧羊犬のボーダーコリーも素晴らしかった。ボーダーコリーにふさわしい役をボーダーコリーにやらせる。ディズニーアニメの『101匹わんちゃん』(61)にもボーダーコリーは出ているんだけど、特に1本目の『ベイブ』のボーダーコリーは2頭とも適役だった。猫は意地悪くて、羊はのんびり屋で、これも面白かったよね。人間のキャスティングだけじゃなくて、動物のキャスティングでも大成功している映画なんだよね。

書籍版ではさらに深く語っていただいております。出版をおたのしみに!!

押井守の映画50年50本