この連載が『「街小説」読みくらべ』というタイトルで書籍化することになりました! 2つの街についての書き下ろしもあります。2020年7月10日発売予定です。詳細はこちらからどうぞ。
父は僕にとってはずっと謎の人だった。都会にしか住んだことのない僕にとって、木は木でしかないし、草は草でしかない。どれを見ても区別がつかず、名前は知っていても実際のものとは対応していない。けれども父は違う。
一緒に道を歩いていれば、目に入ってくるあらゆる植物の名前を言い続ける。週末になれば、海に釣りに行き、山に山菜を摘みに行く。金沢だろうが東京だろうが、どこに住んでいても暮らし方は変わらない。
近所の猫はみんな父に懐いていて、表に出ると寄ってくる。「猫ちゃーん、ニャー、ニャー、かわいいねえー」とか言って、気づくと猫たちが地面で腹を見せてコロコロ転がっている。別に餌をやっている様子もないのに。一方僕は、犬も猫も飼ったことがないから、どれを見ても恐いばっかりだ。
こないだ正月に里帰りしたときも、正月の挨拶なんてほとんどなしに、「みんながウグイスだと思い込んでいるウグイス色の鳥は実はメジロで、ウグイスは地味な色をしている。だからみんな見ても絶対にウグイスだとは気づかない」ことについて熱弁していた。いや、気持ちは分かるけどそこまで重要か?
以前は僕は、父が大分県の山奥にある農家で育ったからだろうと思っていた。そしてやたら植物の名前に詳しいのは、大学で農学部の園芸科を卒業したからだと。でもちょっと考えればわかるように、農家の人がみんな動物と仲が良いわけでもないだろうし、園芸科卒の人が植物の名前を覚えまくっているわけでもない。
退職後はこの傾向がさらに加速した。国立からそれほど遠くない場所にある実家から、自転車に乗って延々と走り回っている。連日多摩川の河川敷まで行き、鯉を釣っては放し、釣っては放しで、1年で数百匹も釣り上げている。もちろんそんなに魚がいるわけではない。同じ場所で、同じ魚を何度も釣っているだけだ。
さらには河川敷に住んでいるホームレスのおじさんと顔見知りになり、庭木を植えたり作物を育てたり、充実した暮らしを送っている、という話を聞いてきた。坂口恭平がホームレスの人たちに弟子入りしてしまう『0円ハウス』はすごい、と思っていたけど、気づけば自分の父親も似たような活動をしていたというわけだ。
彼らの姿に刺激を受けたのか、いつしか父の頭の中に西東京狩猟採集マップができあがっていた。良い柿の木があれば、その家の人と交渉して取る許可をもらう。公園の銀杏が大量に落ちていれば、公園事務所のおじさんと交渉して、早朝、他の利用者さんが来ていない時間帯なら取ってもいいよ、と話を付ける。
こうして父は様々な獲物を求めて、かなりの距離を自転車で走り回っている。そうして捕獲してきた食べ物を、自宅で加工して貯蔵する。だから実家に行くたびに、なんだか分からないものが干してあったり、台所で延々と父が何かのジャムを作っていたりする。
バブルの最後のころ学生時代を過ごした僕は、お金で計られる価値にどっぷりつかって育った。だからデートはフランス料理だし、外車に乗りたいし、ブランド品のバッグや靴が欲しかった。大してお金もないのにそうした感覚だけは身につけていた僕にとって、父の行動は理解不能だった。
でも今、平成も終わったタイミングで考えると、父の価値観こそが先進的だったのかもしれない、と思う。日本国における資本主義の中心地である東京に住みながら、都市の思考法を全く受け入れず、そこに住む木や魚や猫やホームレスを繋いで勝手な東京を創り出し、お金を介さずに楽しく生きている。
結局ウグイスとメジロの話を最後まで聞いた僕は、なぜか父と一緒に大根を収穫することになり、近くの市民農園に行って、巨大な大根を数本抜いてきた。なんでも、父の区画は驚異の収量を誇っており、そこで獲れたニガウリの種が盗まれたりするという。次の年に他の区画を見れば、誰が盗んだかわかる、とのこと。
その大根は自宅では食べきれず、大学院生にあげた。「ほしいですー。嬉しいー」とか、予想外にものすごく喜ばれて、なんだか面はゆかった。マルセル・モースの『贈与論』なんて読むと、プレゼントこそが人間を繋いできたと書いてあるけど、本当にそうなのかもしれない、と思う。
西東京の不倫
さて、大岡昇平『武蔵野夫人』の話だ。多摩川の支流、野川の近くに、はけと呼ばれる地帯がある。河岸段丘の崖のところから水が湧き、古くから農業用水や飲み水として使われてきたという場所だ。ここに住んでいるのが、フランス文学者である秋山と道子の夫婦である。
二人の中は冷え切っている。戦後のにわか景気で、昔訳したスタンダールの本が売れている秋山は、この勢いのまま近くに住む富子を愛人にしようと画策する。その富子は夫の工場主である大野と冷えた関係を続けている。
けれども道子は古い道徳観に殉じるように、この関係を形だけでも保とうと頑張る。そもそも親の反対を押し切って秋山と結婚したのに、別れるとなったら体裁が悪いという意地もある。だがこの彼女の決意は、いとこの勉がビルマ戦線から復員すると揺らいでしまう。
外国で極限状態における人間のあさましさを見尽くした勉には、単なる立身出世のために文学をやっている秋山にはない凄惨な魅力がある。ただでさえ美貌の彼が、富子の家で家庭教師をやるために道子の家に住み始めると、いつしか二人は互いを意識するようになる。
恋ヶ窪で恋に落ちて
道子が自分たちの恋をはっきりと意識したのは、国分寺市の恋ヶ窪(!)という地域だ。野川の源流である泉があり、今は日立の研究所になっているあたりを二人で歩いているとき、この感情は恋だ、と道子は気づく。彼女は全力でこの恋に抵抗する。だがそのことによって、かえって彼女は火に油を注ぐ結果となる。
家を捨て、夫を捨て、自分の道徳観も捨てて勉と一緒になるべきか。あるいは、自分の美学を貫いて自らの恋心に徹底的に抗うべきか。彼女はそのどちらにも決められないまま、ずるずると追い込まれていき、遂には悲劇的な結末に至る。
戦争から帰って来た勉は、日常的な世界になかなか復帰できない。空を飛行機が飛んでいれば、攻撃されるのではないかと身構えてしまう。ときどき、何も起こっていないのにビクッと体を動かす。おそらくは無意識のうちに戦場での体験を思いだしているのだろう。
それだけではない。武蔵野の森を歩いていると、突然目の前にビルマの原野が広がる。すると砲声や兵士たちのうめき声すら聞こえてくる。PTSDから癒えることのない彼は、記憶と現実の間をさまよい続けているのだ。
だから、風景についても他の人とは受け取り方が違う。はけの斜面に自然についた道に、彼は労力を最小限にしようとする人間の努力を見て取る。斜面に応じて微妙に太くなり、また細くなる道の流れを、彼は美しいと思う。
彼が道子に惹かれたのも、彼女の言葉や動きに無駄が全くないからだった。
ことに彼の注意を惹いたのは、彼女の動作に無駄のないことであった。何もすることがない時、彼女は正確にじっとしていた。そして決して無駄な口をきかなかった。
こういう動作の正確と経済に敏感なのは、多分彼が必要なことしかしない、またしてはならない戦場から得た習慣である(65ページ)
日常生活とは違って戦場では、多弁や落ち着きのなさは死に直結する。エネルギーを浪費する者は、いざというときに生き残ることができない。そして勉は、古い価値観の中で育った道子の仕草に、高い生存可能性を感じて美しいと思う。
そもそも彼が斜面や道といった地形に興味を持っているのも、兵士として常に逃げ道を探り続ける習慣があったからだ。こうした思いも道子となら共有できる、と思い込んだ勉は、武蔵野の地理を探るための散歩に彼女を誘う。そして二人で恋ヶ窪へと至るのだ。
もちろん彼女は、勉の地理的な話になど興味がない。「勉の時々くどくなる衒学的な説明をおしまいまで我慢したのは、彼の声を聞くのが楽しかったのである」(77ページ)。声を聞くのが快いからこそ、詰まらない話を聞き続ける。これこそが恋の定義ではないか。
男らしさの無力さ
社会の決まり事の外側にいる勉に対して、道子の夫である秋山は、世間の価値観にがんじがらめになっている。醜く貧しい彼は、立身出世の手段として文学研究を選ぶしかなかった。「埼玉県の貧農の家に生まれた彼は、少年の時から出世のことより頭になかった。生来おとなしく意気地なしの彼は、学問による道を選ぶほかなかったが、文学を志したのは、たとえば数学のような確実な学問で衆に抜きんでるには頭が悪かったからである」(18ページ)。
自らも文学に関わっている大岡がここまで辛辣に秋山のことを書くのがすごい。そして大岡と同じく、秋山はスタンダールを翻訳し、それが当たって小金を持つようになる。妻の裕福な実家に暮らす彼はもともと肩身が狭かった。けれども経済的に貢献できるようになると、途端に傲慢になる。
そしてスタンダールの小説で読んだような浮気をしてみたいと思い始めるのだ。相手は富子だ。しかし彼は富子を愛しているわけではない。まったく情熱のないまま、彼は富子をくどき続ける。
「ただ彼は相変わらず説得によって女の心を得ることができると思っていた」(127ページ)。人間の心を解さず、ただお勉強の対象として文学を学んだ秋山のダメさを、こんな一言で掴み取る大岡の力量には圧倒されてしまう。結局秋山は、富子の気紛れによって関係を結ぶことに成功する。だがそうしながら、ようやくこれは自分の求めていたものじゃないのでは、と気づくのだ。
スタンダールを学び、フィリピンで兵士として戦った大岡は、自分の体験を二人の男に分裂させ、その弱さや悲しさを内側から描ききる。彼らが信じた男らしさはどちらも、愛の前では無力だ。学歴エリートや軍人といった近代日本の男性像がいかに底の浅いものだったかを、不倫小説という枠組みを使って彼が表現しているのが興味深い。
参考文献
大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、1950年。