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国立の有名人と言えば、もちろん忌野清志郎である。じゃなくて山口瞳だろ、と思う人もいるだろうが、まあ許してください。まだ中学生の僕にとって、『い・け・な・いルージュマジック』のプロモーションビデオは衝撃だった。なにしろ、あのイエロー・マジック・オーケストラの坂本龍一が化粧をして、これも化粧をした得体の知れない男の人とキスしているのである。何ごとだ。しかもあの、一語一語明瞭にわかる特徴的な声で「いけないよ」とか言っている。何がいけないんだ。しかもルージュマジックって何だ。わけがわからない。
そのころ僕は、デュラン・デュランやカルチャー・クラブなど、イギリスの軽めのロックを聴いていた。明るくて、流行の感じで、歌詞がわからない。それが良い曲の条件だと思い込んでいた。いわゆる、洋楽のほうが偉い時代というやつですね。だからこそ、清志郎が日本語で歌う曲は異質だった。言葉が入ってくる。しかも性の境界を乗り越えている。ポップだけどやたらと危険な感じがする。一気に惹き付けられた。
高校に入るとスタイル・カウンシルなんかのお洒落ロックを聴いたり、セックス・ピストルズみたいな古典を聴いて、不良な気持ちになったりしていた。プリンスなんかの黒っぽい音楽を聴き始めたのもこのころである。それでも、清志郎はいつも聴いていた。
大学受験の重圧に苦しんでいたころ、自習の時間に教室を抜け出して、屋上で寝っ転がりながら『トランジスタ・ラジオ』を一人で小声で歌ったりした。教室で勉強している女の子を思い浮かべながら、イギリスやアメリカから聞こえてくる音楽をポケットの中のラジオで聴く。そんな歌詞に涙が出てきた。どうして清志郎は僕の気持ちをこんなに分かってくれるんだろう。
一橋大学の劇団己疑人のアトリエでも、いつもRCサクセションの曲がかかっていた。『不思議』なんかを聴いていたのを思いだす。久しぶりに再会した彼女は英語教師になっていて、自分はロッカーをやっている。政治運動の敗北のあと、資本主義なんて糞食らえとは思い続けているけど、結局自分もその手先に成り果てている。でもいいんだ、自分なりの筋を貫き通しているんだから。こうした歌詞が、自分には何かできるはずだともがいていた僕らの気持ちにぴったりと重なった。
文学で独立する方法
清志郎の『ロックで独立する方法』を読むと、自分がいかに彼の考え方に影響を受けてきたのかわかる。もっとも僕の場合は、「文学で独立する方法」だけど。自分の好きな道で、メディアと付き合いながら、売れ線にも行かず、でも消えるわけでもない持続可能なやり方で、自分が面白いと思うことをやり続けるのが一番、とでも言ったらいいか。
清志郎は言う。ミュージシャンになりたい、なんてことが最初に来てはならない。あくまでこういう音楽がしたい、というのが最初。でそこからが勝負になる。好きなことを貫く以上、どんな努力も努力じゃない。遊んでいるだけ。だから何も犠牲になんかしていない。
売れなければ世間はお前が悪いと言うだろう。けれどもそんなときに反省してはだめだ。わかってくれない世間が悪いと自分に言い聞かせながら、あくまで自分を貫くこと。そして決して止めないこと。止めたら、自分がつまんないと思ってきた音楽を受け入れることになるぞ。「そこでやめるとなるとさ、そのつまんない音楽を認めなきゃいけないっつうことになっちゃうからね」(31ページ)。
清志郎の言葉は僕に突き刺さってくる。そしてまた、自分は文学を止めない、ということをしてきたんだなあ、と思う。翻訳家になり、学校の先生になり、今は書評を書き、エッセイを書いている。どれも予想外の展開だったけど、自分が面白いと思うことをいかに妥協なく、なおかつ楽しんでもらえる形で実現できるか、という点では共通している。
清志郎の本を読んで、自分の初心に戻れた気がした。売れるとか売れないとか、人気があるとかないとかこっそり気にしてきたけど、そんなこと関係ないんだ。ただ、自分と仲間を大事にして、文学に向かう気持ちを大事にすればいいんだ。ロックで独立してきた大先輩にあらためて教わった気がする。
清志郎に触発された小説
さて、清志郎には国立を舞台にした歌がある。『ぼくの自転車のうしろに乗りなよ』では、彼女を自転車の後ろに乗せて坂を下り国立に行く。ということは、わりと急な坂がある北の国分寺側から来ていることがわかる。ちなみに、清志郎の実家もここらへんだ。二人乗りで南口に出て大学通りを走り、一橋大学の芝生の上で寝転ぶ。いつも君は「あなたは悪くない」と僕に言ってくれたね。愛してくれてありがとう。という感じの歌詞だ。確かに、世界でたった一人でも肯定してくれるから生きられる、という時期があるよな。
そしてもう一つが名曲『多摩蘭坂』である。国分寺駅の南側から国立に向かって下っていき、そのまま進むと一橋大学のキャンパスに突き当たる、という坂だ。坂の途中の借家に住んでいる主人公は電話のベルでふと目を覚ましてしまい、君のことを思いだす。そして月を眺めて、君の口に似ているなあ、と思う。ということは別れてしまったんだろうか。悲くて、切ない。聴いていて涙が出てくる。
黒井千次の「たまらん坂」は、この曲に触発されてたまらん坂の来歴を調べるという話である。ある日主人公がこんな光景に出くわす。なんと、妻と息子が一緒にRCサクセションのレコードを聴いているのだ。妻がこんなにうるさい音楽を好んで聴くなんて。彼は妻の知らない一面に驚く。今となっては不思議だが、この作品が書かれた80年代初頭でも、ロックはこうした感じのものだった。
実際僕も、母親とテレビでRCサクセションのライブを見ていたら、父親が怒りだしたのを思いだす。『雨上がりの夜空に』の歌詞に、こんなロックなんてやってないで明日のことをちゃんと考えたほうがいい、と「俺」が誰かに言われる部分があるのだが、それを聴いて父親が、そうだ、ちゃんと考えろ、と清志郎に毒づいていたのだ。僕はムッとしながら、同時に上手いこと言うな、と感心した。
さて、「たまらん坂」に戻ろう。驚いたわりには、主人公は清志郎の歌に心を揺さぶられてしまう。そして「曲は多摩蘭坂の途中の家を借りて暮らしている若者の、どこか淋しげで甘美な心情を乾いた声で歌い続けている」(19ページ)と思うのだ。これはもうファンではないか。そして奇妙な情熱に駆られて、たまらん坂の来歴を調べ始める。
「たまらん」の由来はどこにある
最初の手がかりは清志郎のインタビューだった。とはいえ、息子が以前読んだうろ覚えの情報だから心許ない。それによれば、叢林の小道を逃げ延びた落武者が、意外と急な坂に思わず「たまらん」と声を漏らしたのが名前の由来らしい。
主人公はこのイメージに人ごとでないものを感じる。確かに自分もがんばって生きてきた。けれども成功者とはとても言えない。「現代の己を際立った落後者とも敗残者とも感じているのではなかったが、晴れがましく勝利した者でないことだけは明らかだった」(26ページ)。こんなはずではなかった、という思いと、でもこうとしか生きられなかった、という思いが交錯する。どんな人でもそうではないか。
そして落武者の嘆きに主人公は共感する。ときに弱く惨めにもなる自分もまた落武者ではないか。「たまらんなあ、と低く呟くと、なにがたまらんのか言葉を発した者自身がよくはわらかないのに、たまらん、たまらん、と背後で深い声が答えてくれた」(26ページ)。こうして、若者の思いは中年の嘆きに横滑りする。
主人公は書店や公立の図書館を巡り、郷土資料を漁る。だが彼の歴史ロマンは初日に崩れ去ってしまう。なんと1931年、神田から一橋大学が移転してきたときに、名も無い叢林の小道を拡げたものだったのだ。そしてついに、たまらん坂という名前を考案した元一橋大生たちの手記に辿り着く。
大学の移転当時、中央線は通っていたものの、多くの列車は手前の国分寺駅で折り返し運転をしていた。なのでそれに乗り遅れてしまうと、国分寺駅からの道のりを大学まで延々歩かなければならない。ただでさえ遠いのに、雨など降ろうものなら整備されていない道はどろどろになる。こりゃたまらん。
ほかにも二つ説が出て来る。「昭和の初め頃にこの坂をランニングで登り降りした大学生達が急な勾配に閉口して、これはたまらん、と繰り返したところから坂の名前がついた」(34ページ)。そして最後のものがこれだ。当時男子校だった一橋大生たちが、坂を行く女学校の生徒を見て、「わしゃ、もう、たまらん」とつぶやいた。そこからたまらん坂と付いたのだ。
結局のところ由来は確定しない。いや、歴史書じゃないんだから、確定する必要もないだろう。ただ、一橋大生たちの青春の苦悶が坂の名前になって残っている、というだけで充分だ。というか、一世紀前の学生たちも、今と同じようなことで悩んでいたんだね。
国立駅北口の坂もたまらん坂も、僕の実家に近くて、由来なんか気にせず普通に自転車で通っていた。というか、この原稿を書くまで、清志郎が国立ゆかりのミュージシャンだったなんてことも知らなかった。一橋大学、清志郎、そして実家がどんどんと繋がってきて驚く。
参考文献
忌野清志郎『ロックで独立する方法』新潮文庫、2019年。
黒井千次『たまらん坂』講談社文芸文庫、2008年。