6.松本隆さんの歌詞について。/見つめ合うために、孤独があると。

 はっぴいえんどの歌詞、あれはいったいなんなのか、そのことを考えようとするとき、かならずこの歌詞の「お茶」の鮮やかさについて、語るしかないと思うのだった。

曇った空の浅い夕暮れ
雲を浮べて煙草をふかす 風はすっかり
凪いでしまった 私は熱いお茶を飲んでる
「君が欲しい」なんて言ってみて
裡でそおっと滑り落す
吐息のような嘘が一枚
私は熱いお茶を飲んでる
雪融けなんぞはなかったのです
歪にゆがんだ珈琲茶碗に 餘った
瞬間が悸いている
(※1)

 情景描写。それは私にとって、「肉体の感情」を表すためのもの。景色のどの部分にまずピントを合わせていくのか、その次はどこに目を向けていくのか。思考するよりも、感じるよりも先に、肉体が、それらを反射で決めてしまう。広い空から、夕焼け色を選びとる。タバコの匂いを気にする嗅覚、風を感じている肌、それから産毛。唇に触れる、お茶の熱さ、香り。ここにはそれ以外の色や音、気配も存在していたはずだ。けれどそれらは切り捨てられる。ただ、目の前の出来事や風景をそのまま描写しているのではなく、そこには肉体による「選択」があって、それはその人の精神や思考とは、また違う形での「感情」なのだと思う。心ではなく、肉体に備わっている「感情」。それらを描くために、「情景描写」はあるのだと思っている。
 肉体を持ち、世界の一部分として、存在している「私」たち。つねに、なにかとすれ違い、ぶつかりながら暮らしている。そのすべてを見つめる私の瞳は、ただ世界を切り取るカメラではなく、私そのものであるはずなのだ。私という存在は、心だけのものではない、体だけのものでもない。世界と、切り離されることも、完全な融合もすることなく、永遠に絡み合い、ゆれうごいている。

 さきほどの歌詞「かくれんぼ」は、2行までは淡々とした「風景の描写」にも見える。そこに誰かの肉体が介在しているのか、それとも神の視点の「描写」であるのか、わからないのだ。それらの描写が、一人の人間の肉体を通じて行われていると確信できるのは、3行目「お茶」という単語が現れてから。
 仕事の話をしていた人が、急に「母」ではなく「お母さん」と口にしたとき。バイト先で茶碗を「お茶碗」と怖い先輩が必ず言うということ。日常にも、似たようなことはある。急にそのひとの日常と人生の匂いが、するっと気を抜いたようにあらわれる。それは、はっぴいえんどの歌詞全般に通底しているものでもある。客観的な言葉、そして冷静にも見える情景描写の中に突如「誰かの人生」が香る。だからこそ、この「お茶」は鮮烈に聞こえるのだ。オセロをひっくり返すように、それまでの全ての描写を「肉体の言葉」に変えてしまう。「私は熱いお茶を飲んでる」、このタイミングでこの言葉が現れる必然性は、読み手には決してわからないけれど、でも彼女の身体にとっては絶対的にそうだったのだと、信じることはできてしまう。表現を理解する、その手助けをするようなフレーズではない。ただ、全てを飛び越えたところで、「確信」させるフレーズだ。彼女の肉体が、そこに実在しているのだと。

「お茶」の1行に至るまで、一人称さえ現れていない。楽曲としての「お茶」のリフレインもまた、この効果をひたすらに増大させるものだ。この言葉に対する、音の極めて繊細な様、それが、はっぴいえんどの音楽を特別なものにしている。

古惚け黄蝕んだ心は 汚れた雪のうえに
落ちて 道の端の塵と混じる
何もかも嫌になり 自分さえ汚れた雪
のなかに消えて 泥濘になればいい
(※2)

 はっぴいえんどの歌詞。
 内省的と、言ってしまえばそうなのかもしれない。けれどそれは外側から観察したひとの言葉であって、歌詞の中にいる「ぼく」自身が自分を「内省的」と捉えながら言葉を紡いでいるようには見えない。むしろ、「外」と深くつながっていると感じているのではないのかなあ。
 ひとは思い詰める。感情と思考で三つ編みを編むように、じっと考えを進めるとき、感性にすべてを委ねるとき、ときには外のことが見えなくなる、「自分の殻に閉じこもっている」なんて言葉もあるけれど、そりゃ自分が自分のことを考えれば、全てが完結してしまう。同時に外へ関心を持つことはできやしないんだ。けれど本当は生きている限り、ひとは完全に閉じることなどないのだということを、なんだか私は知っている気がする。ふと雨の音が、風の手触りが、編む指先に混ざり、思考、感情、感性とともに三つ編みを作ること。どこかで、わたし、知っているのではないか。

 閉じてしまったはずなのに、外が見える。外が、いつもと違った見え方をする。これまで見えていなかった部分、底の方、遠いところ、暗いところ、そういうものがちらちら、瞳の中に入ってくる。
 それは閉じてしまった自分の壁に、小さな穴がまだ開いているからかもしれない。そこから外を覗き込むことで、狭い視野だからこそ、いつもと違うものが見えてしまう。ただ、外が見えなくなるのとは違って、その狭さに、鋭さや、跳躍が生まれて、むしろじっと遠くを見つめる。視界の向こう側、見えるはずのないものを、長く、長く、捉えてしまう。

雪は白い 都市の裏の吹き溜り
其の時ぼくは見たんだ もっと深く韻く
何かを 黙りこくった雪がおちる
都市に積る雪なんか 汚れて当り前
という そんな馬鹿な 誰が汚した
(※3)

 他人が書いた言葉など、会ったこともない人が書いた言葉など、本当に人間が書いたのかも怪しいんだ。嘘か本当かもわからないし、「私のことなど知らない人の言葉」はどうしたって閉じて見える。私の声など届かないのだ、その人の言葉を一方的に届けられても、壁を感じる、閉ざされていると思ってしまう。友達と向き合って会話をするそのときの言葉に比べれば、やはりとても遠く感じて、せめて、「わかってほしがっている」言葉であれば良かったと思う。目の前にあるはずの、その言葉とつい距離を置く。けれどそんな、どこかの誰かが、一人きりでじっと考えていることを書き綴ったような言葉が、わからないのに、わからないままで、ふとこちらを見たように感じることがある。遠くの人と目があって、急にその人が「生きている」ことを感じとる。その時に感じる近さ、それは向き合った友人とはまた違うもの、もっと心臓だけを強く揺さぶられるような「近さ」だった。
 それはたとえば「私は熱いお茶を飲んでる」という一文。「そんな馬鹿な」という一文。さりげないものであるのかもしれない。それでも、言葉を書いたその人が、自分と同じ人間であることを確信してしまう瞬間が来る。会ったこともない他人の言葉だからこそ、「それなのに」信じられたと、胸を打たれる。

涙ぐんだような碧めた月がうとうと
している隙に忍び込んできて 部屋を浄って
いる 何かが近づく気配がしている
壁や床板の密やかな息に 雨が吹き
なぐる とても不可思議な夜だった
(中略)
敵がいるんだ硝子のように 冷い
つめたく螺子曲った針の 背後に
蟄れている とても不可思議な夜だった
暖い布団を温々くと纏う 私は冷い
何を怨うか 何を呪うか
硝子壜の底で喘ぎ苦しんで 沈黙に
落ちる 可笑しくもないのに 笑い出し
たかった とても 不可思議な夜だった
(※4)

「死にたい」という感情。そこに混ざりこんだ、夜の雨の匂い、朝の光の中、布団の、太陽の匂い。つまりダニの死骸の匂いがする。また今朝も空っぽになって転がるセミの死骸を見つける。鳥の死骸、見なくなった野良猫、日常の中に無数にある死、ニュースで聞こえる誰かの死。自分の命の「裏と表」とは違う場所にも、無数に死があることを、恐ろしいと思うし、でもそれこそが自分の死より本当はとても近くにあること。自らの生の、裏側にあるだけではなかった「死」を見つめることで、これまで全く見えなかったものが見えてくることもある。
 死を見つめることは、ただ生から目をそらすことではないのかもしれない。小さな穴を覗き込むように、そこからまた違った「生」が見えることもあるのだろう。

 はっぴいえんどの「敵タナトスを想起せよ!」の歌詞には、そうした「生」の姿が描かれているように思う。「碧めた月」が「部屋を浄」うといった表現や「螺子曲った針の背後」といった言葉。その人が生きて、日々を過ごしたその先にしか見つからないものがここには書かれていて、そうしてきっと第三者にはわからない、理解しがたい言葉にも見える。わからないからこそ、その言葉にはその人自身が閉じ込められている、という、そのことを、気づかせるために生まれたような言葉だ、「可笑しくもないのに笑い出したかった」。
 覚えのある感覚だ。「螺子曲った針の背後」とは考えたことがなくても、「可笑しくもないのに笑い出したい」という感覚は知っている、と思える。「自分もそういうことあったかも」とわざわざ考えるより先に、体の中、脳の中の引き出しが自動で一つさっと開く。ここに入っている、私もこの感覚に触れたことがあると、即座に気づけてしまうんだ。
 そのスピード感が、それまでの「わからない」言葉に対して、理解しよう、考えて感じとって、時間をかけて咀嚼しようとしていた頭の中を、ぱっとリセットしてしまう。自分のこれまでの時間、経験が、反射的に歌詞に反応したことで、この言葉を書いたその人もまた、生きて、生きた先のものとして言葉を書いたと知ることができる。そうしてその言葉の「わからなさ」もまた、その人生の感触として手に、残りはじめていく。それまでの言葉すべてが、反転していくように。

 書き手の真意が、正しく掴めることはない。共感も、同意も、できるとは到底言えそうにない。けれど、直感でその人が生きていると信じられたそのとき、もうそれで十分だと、言い切ることができてしまう。
 そうして、知る。歌詞ではない、日々の会話のなかで、抜け落ちていった体温や存在があったこと。相手のことを理解や把握するために、関わって来たのではないのかもしれない。どれほど近づいても埋まらないものがあり、それでも何かが通じるからこそ、何かを自分が撃ち抜くことがあるから、大切にしたい、と思う。繋がらない存在、孤立した存在を。さみしいことだと思う、けれど、だからあなたを「人」として見つめられる。ここには、見つめ合うために、孤独がある。はっぴいえんどの歌詞を読むたび、そのことを思い出す。「他人というものは得体の知れない存在だ」という真実に、どこまで正直でいられるか。そのことが、きっと、言葉の強さを決める。


※1 はっぴいえんど「かくれんぼ」
※2・3 はっぴいえんど「しんしんしん」
※4 はっぴいえんど「敵タナトスを想起せよ!」