5.坂本慎太郎さんの歌詞について。/「感情」という顔を、引き剥がして安心する。

 こころというのは、痛みとか悲しみとか喜びとかとは別のところにあるのではないかとよく思う。反射的に体をのけぞるように、適時反応を見せるけれど、それはこころそのものの姿ではなくて、水面と泉のように、揺れても荒れても、人の中には、底でずっと静かに横たわる、そんな本質があるのではないか。

ぼくの心をあなたは奪い去った
俺は空洞 でかい空洞
全て残らずあなたは奪い去った
俺は空洞 面白い
バカな子どもが ふざけて駆け抜ける
俺は空洞 でかい空洞
いいよ くぐりぬけてみな 穴の中
どうぞ 空洞
(※1)

 ゆらゆら帝国の歌詞に、戸惑う瞬間がある。それはその「静かな本質」を歌っている気がするからだ。わたしたちは感情を言葉や態度にすることで、コミュニケーションをしている、つもりでいる。けれど、そうでなくても視野にはあなたの肉体があり、あなたは無意識に顔を傾けたり、まばたきをしたり、呼吸によって肩を震わせたり。それによって通じるものはあり、だからひとは、「言葉だけ」を信じないし、「態度だけ」を信じない。いつまでもすべてを知ろうとするし、だから何かが満たされない。肉体だけでなく精神だって、それは同じだろう。わたしたちには感知できないところ、アスファルトよりもずっと底、細い水脈のような場所で、私たちのこころはつながっているのかもしれないんだ。知り合いのいない空間、無数の知らない人がいる空間、互いに興味を持たないその時間、それを、「無」とは思えない。

さっきからあなたの目の前でおとなしく座っているだけのぼくだけど
頭の中では今たいへんなことがおこっています
手と足と胴体がそれぞれバラバラに動きだしそうで
それを押さえつけてジッとしているだけでやっとの状態です
空想の川のむこう側からときどきこちらを確認している
あなたが私のここ十年間のシンボル
言葉はなくましてさわることさえできないけれど
あなたが変わらずそこにいればそれだけで安心する
馬みたいな車と
車みたいなギターと
ギターみたいな女の子が欲しい
(※2)

「何も思わない」時間を、ひとは「静かだ」と感じている。けれどそれは決して「何もない」というわけではないと知っているかどうか、それが創造、何かを作るという時間において、とても重要だと私は思っている。そこにこそ本当の激しさはある、深さはある、暗さはある、明るさはある。生きているのはわたしだけれど、生きているということ全てを知っているつもりになっては退屈だ。だから集中の向こう側にある草原のような場所に行こうと、言葉や音をつないでいくのではないか。巨大な引力をもつ星は、「静けさ」にこそあって、たとえ絶望を生き抜いたとしても、最高の幸せが過ぎ去ったとしても、それでも、わたしはばらばらになどならず、「わたし」のままで新たな時間に突入していく、その恐ろしさを忘れるな。

さっきからあなたの目の前でおとなしくうなずいているだけのぼくだけど
頭の中ではいよいよたいへんなことがおこっています
あと10秒数えるあいだにここからどこかへ消えてくれないと
お前の大事な冷蔵庫の中身を全部食っちまうぞ
グレープフルーツちょうだい
グレープフルーツちょうだい
グレープフルーツちょうだい
(※3)

 では、「静けさ」はその人の内側で完結するものなのだろうか。他者と通じ合うには何かを発露せねばならず、何かを打ち明けなければならないと、多くの人は思い込んでいるように見えるけど、でもそれは不自然じゃないか? 愛や友情、憎しみや恨みではない、人との関わり合いがあるはずだ、喜びや怒りをシェアしなくても、苛立ちや悲しみをぶつけなくても、通じ合うものはあると信じているし、それってそんなさみしいこと? 私にはそれは冷たくて乾いたものではなく、大きな木に抱きついたときのような、よそよそしいながらも、じんわりと、自分が静まるような時間に思える。自分の、心臓の音の向こう側に、知らない何かの「生きる音」が聞こえる。それは、木でなくても、人であっても、ありうるはず。人だからって、完全に分かり合えるわけでも、同じ人生を生きるわけでもないのだから。

 でも本当は、「生きる音」など聞かせたくないのかもしれない、たくさんの人と会話をしている時ほどそう思う。人は、その辺にいる他人より、木のほうが、ずっとずっと近づいていけるのかもしれない。社会があり、役割があり立場があり関係性があり、木とは違う、人は人に、警戒をしている。だから「発露」や「告白」を求めている。そうした水面の乱れを見せることで、奥にあるものを隠したいのかもしれない。何も思わないという、無防備な、精神をむき出しにした状態を。だから、音楽や絵画や文学に惹かれてしまうのだろう。何かを作ろうとするそのとき、感情はもう「感情」という顔を捨てて、乱れた水面の奥底の、静けさとして、現れる。ゆらゆら帝国。「静けさ」の中にある「激しさ」を知っている人の言葉は、コミュニケーションのための「感情」ではない、本来の、純粋な、むき出しの、静かでいて、決して消えることのない、無限の精神、それを、捕らえて離さない。

※1 ゆらゆら帝国「空洞です」
※2・3 ゆらゆら帝国「グレープフルーツちょうだい」