5-3.福岡編 遠藤周作『海と毒薬』~メロン畑の思い出

 九州大学と聞くと、親しみの気持ちが湧いてくる。自分が通っていたわけではない。父がここの農学部で、学生時代の話をよく聞いていたからだ。とはいえ半世紀以上前の話だ。今とはだいぶ違う。

 父は園芸科出身で、演習でメロンなんかを作っていたらしい。収穫の時期になると、もちろんメロンは一斉に実る。これを誰かが処理しなきゃならない。最初は豪華だ、なんて言って喜んで食べていたけれど、みんなだんだん食べ飽きてくる。しまいには見るのも嫌になる。まさに芥川龍之介の「芋粥」状態だ。

 小学生だった僕はその話を聞いて、大量のメロンに囲まれて泣いている父の姿を空想した。「もう食べたくないよ~」なんて言って。そして、羨ましいなあと思っていた。当時も今も、本格的なメロンは高くて、あんまり食べられない。農学部っていいなあ。

 さて、その農学部時代のクラスメートの妹と父は結婚した。で、今回はその元クラスメートのほう、母の姉の話である。父と違って、おばさんは大学に残り、理系の学部で助手をしていた。そして夏休みに里帰りをしていた小学生の僕を、研究室を見学に来ないか、と誘ってくれた。

 大学なんて行ったことない。喜んでおばさんについていった。わりと古めの建物で、実験道具や試薬なんかがところ狭しと並んでいる。他の世界とは違う、独特の空間だ。なんだか、誰もいない病院がそのまま大きくなったみたい。

 感心している僕におばさんが言った。せっかく来たんだから、ちょっと実験をしてあげようか。そして容器に水を張り、そこに小さなナトリウム片を浮べてくれた。すぐにナトリウムはシュシューッ、と音を立てて煙を出し、水面を縦横に駆け巡った。そして見る見る消えていく。面白い。

 すごく喜んでいる僕を見て、おばさんは言った。もうちょっと大きいのやってみようか。そしてさっきより2倍くらいのを入れてくれた。ナトリウムは再び、シュシューッと音を立てて進んでいく。けれども突然、「パンッ!」と大きな音を立てて弾け、白い煙がもくもくと上がった。一瞬、部屋が真っ白になった。

 つまりナトリウムが爆発したわけだね。よい子はマネしないで! 特に誰もケガなんかしなかったけど、みんな驚いてしまった。あとでおばさんが机の上に乗って、天井に付いたナトリウムの欠片を箒でこそぎ取っていたのを思い出す。

 さっきYouTubeで同じ実験の動画を見て、すごくなつかしくなってしまった。と同時に、小学生の記憶力に驚いた。水面を動くナトリウムの姿も、そのあと出る煙も、僕が憶えていたとおりだったからだ。

 今では九州大学は、医学部だけを残して福岡市街から糸島に移動してしまった。だから、かつて僕が驚いた研究室ももうない。父親のメロン畑もとっくになくなっているはずだ。けれども、もうちょっと派手な実験を見せてやろうとしてくれたおばさんの温かい気持ちは、今も僕の中に残っている。

触れただけで伝わること

 さて、遠藤周作『海と毒薬』の舞台も九州大学だ。もっとも、F医大という名前になってはいるが。主人公の勝呂は、人嫌いの奇妙な開業医だ。やがて彼が戦時中に、F医大で行われた、捕虜のアメリカ軍人に対する生体解剖実験に関わったことが判明する。

 糸島の出身で、人を助けるために医者になった彼が、なぜ医療の場における殺人に関わってしまったのか。彼だけではない。教授は、助手は、そして看護師は、強く拒もうと思えば拒めただろうに、どうして流れに巻き込まれて、消極的かつ受動的に大罪を犯すことになったのだろうか。

 まず気になるのは勝呂の指だ。新宿から電車で一時間、西松原という地域に引っ越して来た語り手は、近所に住む勝呂という医者に気胸を打ってもらう。この肺に空気を入れるという治療には熟練の技が要る。だが田舎医者であるはずの勝呂は卓越した技術の持ち主だった。

 ならば語り手が安心したかと言えば、そうではない。「けれどもそうした技術のみごとさにかかわらず私にはこの医者が不安だった。不安というよりいやだった。こちらの肋骨をさぐるたびに触れるあの指の硬さ、金属をあてられたようなヒャッとしたあの感じは私にはうまく表現できないが、何か患者の生命本能を怯えさすものがある」(19ページ)。

 彼の冷たい指に触れられるたびに、実験の物体として扱われているような気がして語り手は不安になる。そして彼の不安は的中する。旅先の福岡でたまたま医師と話していた彼は、勝呂の過去を知ってしまうのだ。なんと彼は戦争犯罪で2年の刑期を終えていた。

 触れられた瞬間、語り手は生命の危機を感じる。そうした直感には深い意味がある。木村敏かな、かつて精神医学の本を読んでいたとき、患者が診察室に入ってきた瞬間に感じるもので、実は病名は分かってしまう、という下りが気になったことがある。同じ空間を共有することで伝わるならば、一度触れてしまえばその感覚は揺るぎないものになるはずだ。

 指先の湿り気や温度、力の入り具合の微妙な加減で、今まで相手がどう人と向い合ってきたのかが分かってしまう。そのとき、医学とは患者の健康のためのもの、といったお題目なんて関係ない。理屈を超えて相手の深い部分が飛び込んでくる。表面からは何重にも隠された嘘が分かる。そして信頼関係は一瞬で崩れる。

疲労と無力感の中で

 あとはその語り手の直感を、事実で裏付けていくだけだ。戦時中、F大学の医学部で研究生として勝呂は働いていた。彼の最初の患者は、結核を患う、痩せこけたおばさんだ。入院中の彼女は、戦場にいる息子との再会することだけを願って病魔と闘っている。だがもはや手の施しようもない。それでも勝呂はなんとか彼女を救おうとする。だか勝呂の思いも虚しく、彼女は空襲や天候不良のストレスが重なって死んでしまう。

 いくらがんばっても次々と患者は亡くなる。病気で死ななくても、空襲で、また戦地で人の命がいくらでも失われていく。しまいには、人が死んでも誰も何も思わなくなる。勝呂もまた、疲労と無力感の中で、いつしか考えることを止める。

 軍からF医大に捕虜の生体解剖実験をやらないかという話が持ち込まれたのもこの頃だった。軍にとって塩水を血管に注入したりする実験は、戦場で使える医学の進歩に大いに貢献する。そして肺をどこまで取っても人は死なないか、という実験は結核治療にも大いに役立つ。

 関わった軍人は、軍の力を増すことしか考えていない。そして主任教授は、軍との太いパイプを築ければ、やがては医学部長になれるかもしれないと思っている。助手にとっては講師に上がるためのまたとないチャンスだ。そして看護師は、密かに愛している主任教授を助けたい。

 だが勝呂は違う。彼には積極的な欲望などない。ただこう思っているだけだ。「考えぬこと。眠ること。考えても仕方のないこと。俺一人ではどうにもならぬ世の中なのだ」(88ページ)。重なる疲労の中、彼は目先の人間関係に摩擦を起こしたくない、とだけ彼は願う。

 この話を断れば、必ずや教授に疎まれるだろう。どんな形であれ医者を続ける以上、権力者である教授との関係は一生続く。それを台無しにしてまで断る意味があるだろうか。そして勝呂は、断ったわけではない、という実に曖昧な形でこの実験に参加する。

 この直前に勝呂は、同僚の戸田に、このまま参加してもいいのかと問われる。そんなことをして神が怖くないのか。だが彼はこう答えるのだ。「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」(92ページ)。もし神がいるのなら、あれほど生きてほしいと願ったおばさんは、まだ元気でいるはずではないか。けれども神は彼女を助けてはくれなかった。ならばそんな神はもう、いてもいなくてもいい。

 こうしてずるずると勝呂は殺人に手を貸す。いや、実際には手術室にいただけで、何一つ自分ではしなかった。それでも。何年もあと、西松原の病院で勝呂はこう漏らす。「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない......アレをねえ」(30ページ)。

組織と正義

 彼の言葉には、自分の主体的な判断で人を殺した、という自覚がまるでない。何というか、徹底して人ごとなのだ。確かに悪いことをしたと思っている。だがあのとき殺人に関わった自分は自分ではなかった。だから、もしもう一度同じ情況が起こったら、また同じことをしてしまうかもしれない。

 どうしてこういう思考法になるのか。組織の中では人は変わる、というのが一つの答えだろう。組織において、個人の意志は組織の意志に縛られる。そして組織の意志が大きく倫理を踏み越えたとしても、個人には抵抗は難しい。しかも、トップに至るまでの全員が、こうなった以上仕方がない、という思考法を取っていれば、責任の主体がないまま、組織の意志は暴走する。

 どうやら遠藤周作は、日本の組織でこうした現象が起こり続けるのは、日本にキリスト教的な裁く神がないからだ、と考えているようだ。だから教授の妻であるドイツ人のヒルダを登場させている。彼女はきちんと患者を助けようとしないF医大の看護師を叱りつける。「死ぬことがきまっても、殺す権利はだれにもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか」(113ページ)。

 だが、彼女の言葉は僕には上滑りに聞こえる。もし神がいれば組織の意志に個人が抵抗できるのならば、キリスト教圏の組織は、倫理にもとることは決してできないはずだ。しかしナチスの蛮行について考えればわかるとおり、全くそうではない。

 だから僕らは、日本型の組織は無責任、あるいは神なき国では世間体しか倫理の基盤がない、といった、遠藤周作的な問題設定を書き換える必要があるのだ。どうして組織は常に独立した意志を持ち、時に倫理を踏み越えてしまうのか、それを統御するにはどんなシステムが必要なのか。

 勝呂という存在は、特殊な日本文化の産物ではない。現代世界に住む僕らは多かれ少なかれ勝呂であり、だからこそ、正義とは何かを問い直さなければならない。

参考文献
遠藤周作『海と毒薬』新潮文庫、1960年。


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