5-2.福岡編 東山彰良『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』〜太宰府の大きな楠

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 福岡に行くと、いつも顔を出す場所がある。天神から西鉄に乗って、そうだな、30分ぐらい揺られていくと、そこまで大きくない駅に着く。そのときには、もう気持ちが高ぶっている。

 実は僕は太宰府天満宮が大好きなのです。太宰府の駅から境内までのせいぜい10分ぐらいの道のりを、ゆっくりと時間をかけて歩く。梅ヶ枝餅の店がやたらとたくさん並んでいる。僕が行きつけのところもあって、わざわざ二階に上がって、ねっとりじんわりと口に広がる餅を味わう。お茶の苦さも心地よい。一人なのに寂しくはなくて、むしろ温かい気持ちで、ふーっと息を吐く。

 お土産物屋では、鷽(うそ)の木彫りが売られている。これがかわいいんだな。ちょっと画像検索で調べてみてください。少々目つきの悪いとぼけた顔でこっちを見ているのが良い。くるくると髪の毛みたいなものが巻いていたりして。以前、「ことば使い」の中村和恵さんに北海道ウィルタのお守りをもらったことがあるんだけど、なんとなく似ている。神聖なのに愛らしい、というか。

 と思うと、急に隈研吾さん設計の、あまりにもお洒落なスターバックスがあったりする。やたらと木組みが剥き出して、コーヒーを飲んでいるとこっちに刺さりそう、というか。店内に入ってみると、ずっと中まで未来的な空間が続くのが面白い。いや、木組みだから古代的なのかな。ここだけ見ていると青山辺りみたいだけど、のどかな門前町にあるから、なんだか奇妙な、おっちょこちょいな感じがする。もっとも、隈研吾さんの狙いはそれだったのかもしれない。

 さて、少なくとも千人はいる中国人観光客の間をすり抜けて進んでいこう。鳥居を越えて、池にかかった太鼓橋を渡ると、不思議な空間が広がっている。平らな広場に、巨大な楠が何本も並んでいるのだ。まるで仙人が住む街の街路樹みたい。僕はここの楠が大好きで、ずっと見ていられる。太い幹、うねる根っこ、ものすごく古いだろうに、それでも青々と茂る葉っぱ。どれも素晴らしい。

 20年くらい前は、近づいて直接抱きつくことができた。そうすると、木が持っている神々しい気みたいなものを感じとることもできた。でも今は保護のための柵ができてしまって、そうもいかない。それでも近くまで行って、木の強さやたくましさを感じとる。樹齢は千年以上もあるそうだ。木は今までいったい何を見てきたのだろう。何を思ってきたのだろう。

 そしてようやく境内に入る。白っぽい石が敷き詰められ、その中心を参道が通っているここは、下界とは違う空間、という感じがする。いるだけで心が静まってくる。自然と頭が垂れてくる。とにかく、神社としての実力がすごい。ここに来るのは何十回目だろうか。最近では、太宰府来たさに福岡での仕事を優先して入れている感じすらある。

 子どもの頃は福岡への里帰りのたびに、親や祖父母に連れられて来た。いちばんよく覚えているのは、祖父と2人で来たときのことだ。行きつけの梅ヶ枝餅屋があると祖父が言うので2人で探すのだが、全然分からない。とにかく何十軒もあって、しかもどの店も極端に似ているので、とても見分けがつかないのだ。店頭で餅を焼き、そのまま販売していて、奥にはちょっとした座敷がある。気づけば参道から遠く離れて、神社の裏手まで行ってしまっていた。

「あー、ここここ」なんて祖父は言っていたけれど、適当な場所ですませているのは子供心にもわかった。でもそんなことにはかまわず喜んで、けっこうな量を買い込み、1時間ほど電車に揺られて祖父母の家に帰る。みんなかなり喜んでいた。福岡の人達にとっても梅ヶ枝餅は珍しいんだな、と思ったりした。

 1個目は美味しいんだけど、2個目まではどうかな、と思ってしまう昔風の甘さがいい。変わらない神社で、変わらない餅を食べながら、遠い昔のことを思う。楠にとっては30年や40年など一瞬で、だからこんなに店があるのに、どうしても餅が買えなくてうろうろしている祖父と子供時代の僕を、ほんの昨日のことのように憶えているはずだ。もちろん言葉は通じないけど、話しかければ、「忘れるはずないよ」と楠が答えてくれるような気がする。

漢字が響き合う文化圏

 さて、神社とは少し字が違う大宰府といえば、古代では朝鮮や中国との交流の最前線である。というか、そんなふうに昔、日本史で習った。そして、台湾から来て福岡に住む日本語作家、東山彰良の作品には、ちらちらと中国文化が出てくる。以前『流』を読んで、この人の作品が大好きになった。温又柔さんの小説もそうだけど、こうした書き手の作品を読んでいると、漢字という偉大な発明のおかげで、東アジア全域が、異なる音が響き合いながら緩やかに統一された文化圏になっていることがよくわかる。まるで、ヨーロッパのいろいろな言語の向こうにほの見えるラテン語文化圏のように。

 そういえば、カリフォルニアに留学していたころ、中国人、韓国人、日本人の友だちと鍋パーティーをしたことがある。もちろん英語で喋りながら、「安全」みたいな漢語を自分の言語ではどう発音する? と質問し合う流れになった。そして互いに、中国語、韓国語、日本語であまりに似ていることに驚いてしまった。こんなことは言語学者に言わせれば当たり前のことなんだろうけど、実際に聞くと感動がある。

 なんと言うか、何千年もかけて広大な領域の人々が、あるときには中国語を受け入れ、あるときにはねじ曲げ、あるときには拒絶しながら、自分たちの文化を作ってきたことが体感できた。こういうことは、英語さえできれば国際人、みたいな考え方をしていては気づくことができない。とはいえ、そのパーティーの結論が、「とにかく金城武はかっこいい」になったのは謎だったけど。

日本文学+カンフー映画

 もちろん東山の『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』というたまらないタイトルの短編集にも、中国っぽい要素が登場する。基本的には福岡の大学に通う「有象くん」と「無象くん」という非モテ大学生のイケてない青春が描かれているわけだが、そこに絡んでくる人々の濃ゆいエピソードがいい。

 短編「あの娘が本命」では、イケメンくん、二番手くん、本命ちゃん、引き立て役ちゃんの4人が、イケメンくんが親に買ってもらった新車、アウディA5でドライブに行く。もちろんイケメンくんと二番手くんは本命ちゃんを巡ってつばぜり合いの真っ最中である。医者である親の金力でイケメンくんが圧勝しそうになるも、二番手くんが心霊スポットでの肝試しを提案するにいたって形勢が逆転する。イケメンくんは大の恐がりなのだ。

 案の定、犬鳴峠に差し掛かったところでアウディは真っ暗な中、たった一台きりになる。そして道路を見ると、無数のミミズで覆われているではないか。一体何ごとだ。そこで本命ちゃんは正体を明かす。実は数千年を生きてきた蚯蚓大師で、代々降魔師を続ける引き立て役ちゃんの先祖を殺したのも自分である。ここで二人が出会った以上、決戦は避けられない。

 そして二人は女子大生姿のまま、打ち合っては宙を飛び、くるくると回転し、延々と格闘を続ける。その様を見たイケメンくんと二番手くんは、ただただ圧倒されるしかない、って。なんだそれ。日本の大学生の日常に、香港のめちゃくちゃなカンフー映画が接続されたようで、ものすごく面白い。日本文学の暗黙のお約束が軽々と引き裂かれた、というか。

 確かに、日本文学って、日本で生まれた日本語を喋る人たちが日本でいろいろするだけのものじゃないよね。他にも、『女王陛下のダンベル』では、学園の憧れの的、女王ちゃんに声をかけたものの、体がひょろひょろであることを指摘されたダンベル先輩が「中国菓子の〈よりより〉みたいに体をよじ」(72ページ)るシーンがある。調べてみたら、麻花兒(よりより)って、三つ編みみたいにぐるぐるに捻れた揚げ菓子なんだね。色もちょっと肌色っぽくて、変なリアリティーがあって笑える。

多様な声と説得力

 さて、有象くん無象くんの脱力キャンパスライフに笑いが入る、肩の凝らないエンタメ小説なわけだが、実はけっこう人生の実相に迫る、深い作品になっている。たとえば、先述の「あの娘が本命」で、なぜ引き立て役ちゃんは本命ちゃんと一緒にいるのかという問いに語り手はこう答える。「しかし世の多くの女性がそうであるように、引き立て役ちゃんも真実に目を向けるより、自己嫌悪に目をつむってそのときそのときの偽りの友情を大切にしてきた。そのほうが楽だからである」(21ページ)。あー、確かに。

 1人でいる孤独に耐えるよりは、イケているグループの一員でいるほうがいい。たとえぞんざいに扱われても、寂しさよりはまだ我慢できる。もちろん、それは愛ではない。けれども、愛ではないという真実に目を向けるのは苦痛だ。だって、今の自分を形作る世界が崩壊してしまうから。もちろん、そんな世界など壊してしまえ、と東山は思っているわけだが、同時に、そうできない時期ってあるよね、と引き立て役ちゃんに共感してもいる。とすれば、その後の本命ちゃんとの死闘は、自分自身になるための闘い、ということか。

 あるいは「温厚と激情」に出てくる教授だ。ノリで入ったキャバクラで小悪魔ちゃんを見初め、理事長の娘である妻がいながら恋に狂う。しかしそれはむしろ、長い年月を経て「屋久杉のように大きく育った夫婦愛を根こそぎにはできなかった」(50ページ)。いやむしろ、妻のかけがえのなさに、ほとんど残酷なほどはっきりと気づいてしまう。そして別れを切り出された小悪魔ちゃんの、当然とも言える復讐を、結局は夫婦で乗り越える。

 読みやすく、多様な声が響いていて、しかも説得力がある。現代日本語文学はここまで進化した、ということが東山彰良の作品を読むとよくわかる。

参考文献
東山彰良『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』講談社、2017年。

5-3.福岡編 遠藤周作『海と毒薬』~メロン畑の思い出 に続く


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