1.「文学的歌詞」解体宣言

 わからない歌詞に対して、すぐ「文学的」と言うのはなんなのだろう。わからないならわからないといえばいいし、「文学的」と言うことでわかった気になることは、わからない歌詞に背を向けることではないのか。そこまでして、「わかる」必要って本当に、あるのだろうか?

 人の気持ちなんてわからないものだ。「わかる」と言われたいから、思ったこと考えていたことを、取捨選択して、端的な言葉に押し込んで、誰にでも理解できるものに作り変えているけれど、本当は誰にもわからない。誰にでもわかるような感情は、そこにある意味がないし、「わたし」が生きている理由もないように思う。誰にも伝わらないのも、わかってもらえないのも、当たり前のことで、それでもわかってほしくて「わかりやすい言葉」「わかりやすい態度」に自分を押し込んでいくから、そこから溢れた自分を拾い集めるように、音楽や映画や絵や文学があるのだと私は思っている。私が詩を書いているのは、詩はそうした「わかりやすさ」から言葉を引き剥がす存在だと思っているから。誰にも伝わらないような感情を、そのままで、言葉にしていけばどうなるのだろう? こぼれていった感情を、すくい取っていくような言葉はきっと、詩の姿をしている。そう信じているから私は詩を書いているし、それを仕事にしている。そうして私が詩に興味を持ったのは、歌詞がきっかけだったのだ。

 1行ずつ意味が飛んでいるように見えたし、意味はちっとも通らなかった。けれどそれでもただの支離滅裂ではなくて、そのめちゃくちゃがその歌の「ぼく」や「わたし」にはたった1つの真実なのだと、信じさせてくれる力があった。言葉がこんなにもかっこいいものだなんて、知らなかったと私は思い、それから「わかりやすい言葉」から逃げるように言葉を書き始めた。一気に言葉がただのコミュニケーションツールではなくなり、もっと得体の知れない恐ろしいものだと思うことができたのだ。それは最高なことだった。楽器もできない、絵も描けない、音痴で運動神経もない私には、こんなに近くに、得体の知れない魔物がいただなんて、魅力的でしかなかったのだ(若かったしね)。好きになったブランキーの歌詞はちっとも理解できるものではなかった、わかりやすさなんてちっとも考えてはいないような、そんな歌詞。でも、それは私にとってなによりも「真実」であったし、その言葉が強く響いていることが嬉しくてたまらなかった。
 けれど、そうしたわかりづらい歌詞を「文学的」といって片付けてしまうひとが結構いることをのちのちに知り、なんだか深く傷つきもした。

 文学がなんだとか音楽がなんだとか言う気はなくて、そりゃ、わかりやすさから言葉を剥がしていくのはたしかに「文学」がやっていることと同じベクトルだと思う。けれど、それでも、そういう言葉を語ることで、「わかりにくい言葉」のあのどろっとした感触から逃れてしまっているように見えた。文学的、といえば、このどろどろを片付けてしまえる、というふうな態度に感じていた。どうして、「わからない」ままではいけないのだろう。「文学的」という言葉で、「理解」しようとするのだろう。このわかりにくさ、難しさ、恐ろしさから目を背けるのは簡単だ。でも、それこそが、この言葉が存在する意味だと思う。それらを無視する手伝いを、「文学的」という言葉がしてしまっているんだとしたら、それは歌詞にとっても、文学にとっても、最悪のことだと思うのだけれど。

 わからない、ということに、つい、尻込みしてしまう。友達と話していても「何いってんのかわかんない」と言うのは勇気がいる。相手はわかってほしいはずだ、と思い込んでいるし、実際そうであることも多いから。けれど本当は、誰のことだって自分はわかるわけもないし、自分のことも、誰もわかりやしないのだ。わからない、というとき、その人が、どんなわかりやすい言葉よりも、真実を告げている可能性があるって、思えたら。それだけで、わからない言葉は、(わからないままではあるけれど)、一層愛おしく見えるから。

 この連載では、私が歌詞に対して思うこと、わからなさを鮮烈なままで発し続ける音楽について、書いていこうと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

2. 浅井健一さんの歌詞/感受性そのものの言葉  に続く