2. 浅井健一さんの歌詞/感受性そのものの言葉

 感情なんて、説明できなくて当たり前だ。恋に落ちた理由がもし、誰にだって「わかる」ものなら、その恋は特別なんかではない。私でなくても、あなたでなくても、誰だって彼を、好きになれたと言えてしまう、自分だから、彼を見つけた、と言えなくなるんだ、それは、恋なんだろうか。きっと、恋だけでなく、どんな感情もそうなのだと思う。寂しさも悲しさも、嬉しさだってむかつきだって、説明などできなくて当たり前なんじゃないか。「そんなことで怒るなんて」「そんなことで悲しむなんて」、そんなこと、言われたくはありません。「そんなことで恋するなんて」、そんな言葉がまったくの、野暮であるように。

あの娘のことが好きなのは
赤いタンバリンを上手に撃つから
(※1)

 きみは私ではないから。私の人生などきみは何一つ、経験していないから、だから、きみが私の気持ちをわかることなんてないし、私もうまく説明ができない。説明しようとするたびに、それが、嘘なのだとわかってしまう。伝わるよう言葉を選んで、私の気持ちとは全く違うものを、語ってしまう。

 それでも、向き合うことはできる。わからないまま、見つめ合うことができるから。相手だって生きているんだと、本当の意味で信じていれば、わからないまま、そばにいることもできる。言葉だって、きっと、そんなまなざしのようなものがあるはずなんだ。コミュニケーションツールとして、伝わらなければ、共感を得なければ意味のない言葉ではなくて、わからなくても、意味不明でも、そこに確かに人がいるのだと、生きてきた誰かがいるのだということだけが、届く言葉。ありえないなんて思えない。私は浅井健一の歌詞を知っているから。

核爆弾を搭載したB-52爆撃機が 北極の近くで行方不明になったって
モデルガンを握り締め 僕は自分の頭を打ち抜こうと思って引き金を引いたのさ

モデルガンを握り締めて 窓から外を見下ろせば
冬の香りが僕のほっぺたを 冷たく染めたよ

今年の冬は とても寒くて長いから
おばあさんが編んでくれた セーターを着なくちゃ
(※2)

 言葉が、感受性そのものに見える。

 浅井さんの歌詞は、言いたいことや思ったことを、言葉を使って描写しているというより、感情や思考を生みだすための細胞が、言葉に生まれ変わりそこにいるように感じる。読むと、自分の心のほかに、もうひとつ別の心を渡されたような、その心と一緒に、部屋の窓からいつもの景色を見ているような、感覚。今まで気づいていなかったこと、たとえば遠くの山で紅葉がはじまっていることとか、海の光の反射は遠い街でも見えることとか、深夜に校庭でおきている砂嵐のこととか、そういうことを、見つけていける。豊かで鋭い感受性を借りて、世界を眺めているようだった。生きている人が、そこにいるのがわかる、言葉が、新しい感受性として私の中で波打つから、その「心」が確かに生きているのだと、わかるんだ。

 言葉の意味を追えば、切迫感や、焦りや不信感、許せなさや、全てを切り捨ててしまいそうな純真さが表されているとも思うだろう。けれど、それが書き手の「表現」しようとしたものなのか、それとも、言葉を渡されたことで、聴き手から新たに沸いた感情なのか、私にはわからない。だれにもわからない。言葉そのものが、読んだ瞬間に私の細胞に、生まれ変わってしまうのだから。

きみどり色したこの街の夜は 剥製のミンク
地下鉄のドアにどれほどの愛が どれほどの愛が
秋からあの美しい冬に変われば癒されるね
シュークリーム 君にあげるよシュークリーム まばたきひとつしずに 
(※3)

 言葉を、情報や感情の「描写」のためのツールだと考えれば、浅井さんの歌詞は、「わかりにくい」と言われてしまうこともあるだろう。きみどりいろしたこの街の夜って、なんだろう。地下鉄のドアに愛があるってどういうこと。けれど、これらの言葉は、決して正解を隠すためのメタファーではなく、遠回りをした表現でもなく、何よりも丸裸の「真実」として書かれている。きみどりいろにも、地下鉄のドアの愛にも、言葉を書いたその人は、一ミリの疑問も抱いていない。「そう思ったから、そう書いた」だけのシンプルな言葉に見えていた。(これは、言葉のリズムや、表現のストレートさによるものだろう。ただ書いただけじゃこうはならない。)歌詞の登場人物は、心の底から、町の夜を「きみどりいろ」だと信じている。そんな彼にとって、「シュークリーム」こそが愛で、それは、よそから借りてきた言葉や態度で示した愛よりもずっと、真摯なものだ。確実に。

 わかりやすくはないし、共感もしにくいけれど、でも「そう思ったから、そう書いた」と思わせる言葉は、何よりも感情に近いところで震えているように見える。感情が生まれた瞬間、だれにわかってほしいとか、好かれたいとか褒められたいとか、そういう欲求がこびりつくよりも早く、言葉に生まれ変わるんだ。それは、わかりやすい言葉を借りて、共感を得ようとする(しなくては、生き抜けない)日々を過ごしている人に、届くだろう。本人がもう忘れてしまった奥底にまで到達することすらあるだろう。体温や存在のようなもの。だれにも、わからなくても、ぼくはここにいるし、ここで息をしている。当たり前のことだ。そう語る瞳が、心が、あなたに重なっていくのだろう。

 感受性そのものが、心の琴線が、ただ横たわっているような、そんな言葉を書きたいと、今も私は願っている。それは私へと、最初に届いた「詩」が、浅井さんの言葉だったから。ここから、きっとすべてが始まっている。

※1 BLANKEY JET CITY「赤いタンバリン」
※2 BLANKEY JET CITY「冬のセーター」
※3 SHERBETS「はくせいのミンク」