2-2.金沢編 古井由吉「雪の下の蟹」〜男たちの体の群れ

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 金沢と言えば、やはり雪だ。冬になると、低く立ちこめた鉛色の空から、止めどなく雪が降ってくる。見上げれば、灰色の無数の点が揺れながらこっちに向かってくる。やがて雪が降っているのか、あるいは自分の体が上昇し始めたのかわからなくなってしまう。

 そうなると、もう毎日雪かきするしかない。地元の言葉で「雪すかし」を30分もしていると、息が上がってきて体が熱くなる。それでも、家の前の雪をどかさないと人も車も通れないから、みんな黙って我慢強く雪かきを続けるのだ。屋根に積もった雪は、分厚いひさしとなって軒から張り出してくる。そして徐々に内側に巻いていく。物干し竿で突っつくと、ドドッ、と意外なほど大きな音を立てて地面に落ちる。その前に数年、秋田に住んでいたときはアパート暮らしで、ここまで雪と格闘する必要はなかった。けれども金沢の寺町の家は平屋で、僕の家族が雪から逃れることはできなかった。

 気づけば高校の校庭には2メートルほどの雪が降り積もっている。当然ながら、体育は屋内のみだ。春になるまで校庭の土なんて見えやしない。校舎の屋上から校庭の雪に飛び降りて遊ばないように、と先生から注意があった。大して高い建物ではなかったけど、それでもそんなことをやる生徒がいるとは信じられなかった。だが、校庭に広がる雪を見ていると、僕たちの体をふわりと受け止めてくれそうに見える。もちろん実際には氷の塊だからそんなことはない。死ぬことはないにしても、骨折くらいは平気でするだろう。それでも、白い雪は確かに僕らを誘っていた。

 いちばん雪と格闘したのは共通一次試験の当日だ。センター試験と名前が変わる前の最後の年で、当時、金沢城の中にあった金沢大学の校舎で受けた。会場への行きも帰りも猛吹雪で、歩いていると前方から、雪が同心円を描いて吹き付けてくる。その中を、呼吸もろくにできぬまま黙々と歩いて行く。だから城跡と真っ白な雪、そして入試の緊張が、僕の中で結びついている。その日の夜、記憶をたどりながら、ラジオから流れてくる回答に合わせて得点の計算をした。インターネットもない時代だから仕方がないにしても、どうしてそんな芸当ができたのか。それほど当時の自分の精神が張り詰めていたのか。

東京から北国へ

 古井由吉の作品「雪の下の蟹」で、大学院を出たばかりの主人公は教師として金沢大学に就職する。前回扱った室生犀星『幼年時代』に登場した犀川とは街の反対側にある浅野川近くのはんこ屋に下宿していた彼が正月、東京への里帰りを終えて金沢に戻ると、一面が雪の世界に変わっている。冒頭部分こそ川端康成の『雪国』を連想させるが、その後の展開は大きく異なる。一時的なお客さんではなく、まがりなりにも定住者となった彼は、生まれて初めて、果てしない雪かきを体験するのだ。

 ふだん東京のような大都市に住んでいる者たちは、自然を無視して暮している。その眠りを覚まされるのは、時たまやってくる地震と、大きな台風くらいか。そんなことがあってさえ、何もなかったような顔をして会社に行き、いつもどおりに働くのが美徳にさえなっているように思える。

 だが、この北国では違う。低い灰色の空から、大量の雪が降りつもる。はんこ屋の主人は言う。白山の鳥たちが今年は高いところに巣を作っている。だから豪雪になるに違いない。天気は人の心に直接的な反応を引き起こす。「私はまるで気圧計のようになすすべもなく空の動きに反応して、空が白めば心の内がわけもなく白み、空が閉ざされれば心の内も閉ざされ、うつらうつらと暮らしてきた」(14ページ)。人は空模様と感応しながら生きるしかない。古井由吉の後年の作品、たとえば『ゆらぐ玉の緒』などを読んでいると、低気圧に左右される自分というモチーフが出てくるが、こうした感覚は若い頃からのものだということがよくわかる。

雪と体

 雪は空を暗く閉ざすだけではない。雪明かりが道行く人々の顔を青白く照らし出し、彼らに、まるで死者のような、ぞっとするほどの美しさを与える。あるいは、その光は家の中にまで入り込み、見知ったはずのものの質感まで変える。「階下の居間で朝食を摂っていると、茶碗や箸にまで蒼白い微光がまつわりつき、それを持つ手も毛孔のひとつひとつまで顕わして、まるで私と別の生き物のようだった」(17ページ)。それはもはや、異界から来る光だ。

 都市に閉ざされてきた主人公の感覚は環境に開かれ、彼の前で物たちは別の姿を現す。いや、そうなるのは物たちだけではない。彼自身もまた、自分の見知らぬ姿に気づき始めるのだ。彼にとって、大学の語学教師という仕事は、ただ淡々とこなすだけのものでしかなかった。そして生活も荒れ、何にも興味が抱けない情況が続く。しかし彼は雪の中で、別の自分を発見する。

 それもまた気圧の変化と同じく、体からの気づきだった。いよいよこのままでは屋根が抜けてしまう。そうした恐れに促されるままに、彼ははんこ屋の主人とともに、屋根の雪下ろしを始める。雪は屋根の中心部から下ろさなければならない。端から下ろすと、屋根がたわんで真ん中が押しつぶされてしまう。体験に基づいた貴重な講義のあとは、降り続く雪の中、ひたすら体を動かすだけだ。

 本を読み、本について語る。大学でそうした仕事を続けていると、体の感覚が鈍くなってくる。思考ばかりが進んで、自分が体を持っていることすら忘れてしまう。彼の生活の荒みは、そうした頭に偏った暮らしへの、体からの反逆ではなかったか。だが、過酷な雪かきにそんな頭と体の分裂が入り込む隙間はない。屋根に上って何度も雪を投げ下ろすという反復の中で、自然と自分が消えていく。「血行が健やかになってゆき、神経がやさしい獣のようにまどろんでいた」(25ページ)。滞った血は頭に淀み、イライラとしたささくれ立った思考に誘う。自分とは何なのか。自分は何をすべきなのか。自分に合った未来とはどういうものなのか。こうした20代にありがちの自分自分という問いかけが溶け去る。身体は動物としての喜びに震える。

 気づけば、屋根の上で雪かきをしている他の男たちとシンクロしていた。「雪の落ちる音を聞いていると、私の動きは雪靄の奥の男たちの動きとぴったり合っていた」(28ページ)。そのとき、男達の体は群れのまま一つになる。このときばかりは、あれほど苦しかった自意識の問いも消えている。

 雪のせいで商店から魚や野菜が姿を消しても、米の飯ばかりの夕食がとにかく美味い。「風呂に行ってきまし」(30ページ)という言葉に促されて銭湯に行き、裸になって、男たちの垢の浮いた湯船につかる。だが不思議と汚いという気持ちは湧かない。ただ、しみ通っていく温かさに体が喜んでいるという感覚があるだけだ。そのとき、裸の男たちの体は再び、湯の温かさのなかで一つになる。

蟹のように春を待って

 金沢弁には、特有の声がある。それがイントネーションなのか、あるいは音の出し方なのか、言語学に疎い僕にはわからない。でも「風呂に行ってきまし」という表現を見ると、重みと熱を持った音が僕の脳裏に響いてくる。あるいはこれだ。北陸線の線路に積もった雪を自衛隊が火炎放射器で炙ったら、表面がちょっと溶けただけだった、という話を聞いて「ダラなこと」と言い、「そんなことを考えついた男は、どうせ鹿児島あたりの出やろ」と決めつける。

 室生犀星の作品では、おそらく強い金沢弁で交わされていただろう会話は、すべて限りなく優しい、詩的な標準語に置き換えられている。それは、地域性よりも、人々の交流の繊細さを強調した小説においては正しいことだったと思う。生の金沢弁を、当時東京に住む文壇の人々はあまり理解できなかっただろうし、そうでなくても、そこまで優しいものだとは思わなかっただろう。

 けれども彼の作品を読んでいて僕は寂しかった。室生犀星の作品では、僕の知っている声がすでに翻訳されてしまっているのだ。金沢弁のネイティヴである犀星にとって、それは「自然」な作業だったのかもしれない。しかし古井由吉は違う。ほんの3年ほどしか金沢にいなかった彼は、あの街の言葉を、意味より先に音として聞いた。だからこそ、そうした声の発せられた情況や感情とともに、言葉の有り様を正確に写し取ることかできたのではないだろうか。

 話を戻そう。雪かきの作業の中で、主人公は男たちの体と溶け合い一つになる。だが雪のほうもまた、街と一つになる。大量の白い雪はうねりながら屋根と屋根を繋ぐ。屋根の上で雪かきをしながら周囲を見ると、白い大地が果てしなく拡がっているようだ。「大地が日頃の呪縛を解かれて、空の動きに応えて自由に波立ちはじめたように見え、心にぎわしい眺めだった」(18ページ)。もちろん雪は固形物だ。だがその大きな拡がりが波立っているとき、その光景はまるで、海のうねりのようにも見えてくる。時間の中に固定された流体。ならばその下でうずくまるように暮し、ひたすら春を待つ人々は、さながら海の生き物か。「雪の下の蟹」というタイトルには、そうした意味が秘められている。ならば主人公は蟹の甲羅のような、自意識という固い殻をやぶって外に出ることができるのだろうか。

 その答えは、すでに作品に書き込まれていると思う。「そして雪の中を通り過ぎる者は、人であろうと泥まみれの犬だろうと、等しく体温の何がしかを、融けていく雪に吸い取られる」(48ページ)。人は世界と感応せずに生きることはできない。自意識などは幻に過ぎないのだ。やがて主人公は大学教師を辞め、言葉を介して内と外の境界の揺らぎや曖昧さを探求する小説家となるだろう。ごく初期からすでに、古井由吉は自我を前提とした近代小説の、その先にいたことがわかる。

参考文献
古井由吉『雪の下の蟹・男たちの円居』講談社文芸文庫、1988年。

2-3.金沢編 吉田健一「金沢」〜金沢にはチョコパフェがない に続く


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