この連載が『「街小説」読みくらべ』というタイトルで書籍化することになりました! 2つの街についての書き下ろしもあります。2020年7月10日発売予定です。詳細はこちらからどうぞ。
高校時代にはいろんな本に出会った。それまでいわゆる日本近代文学、という感じの漱石や鴎外、志賀直哉なんかを読んでいたんだけど、村上春樹や高橋源一郎などの存在にようやく気づいたのだ。彼ら同時代の書き手たちに共通するのは、レイモンド・カーヴァーやドナルド・バーセルミなど、現代アメリカ文学に強い影響を受けていることだった。でももちろん田舎の高校生だからそこまではわからず、繁華街の片町にある「うつのみや」という大きな書店の洋書コーナーでJ.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を買い、お洒落なものを読んでいる自分に酔いしれていた。うーん、青春。
だが、当時本当に心の底から好きだったのは、室生犀星だった。中学時代は谷川俊太郎が大好きで、角川文庫版の詩集をいつも制服のポケットに入れていて、ときどき友達に朗読したりしていたが、そのうちもう少し古い詩を読むようになったのだ。岩波文庫版の『室生犀星詩集』を手に入れて、なんだかとてもいいなあ、と思ってくちずさんでいた。たとえばこんな一節だ。
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝け
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
(『叙情小曲集』17-18ページ)
そのときにはこれが文語体ということも意識せず、ただ温かな風景を描いた祈りの声としてだけ聞いていた。だから、その裏に犀星のどんな生活があるかもほとんど知らなかった。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
(『叙情小曲集』15ページ)
僕には故郷がない。東京、秋田、石川、ロサンゼルスと常に移動しながら育ってきたために、ここ、という決定的な場所がないのだ。プロフィールにはいつも福岡出身と書いてはいるが、祖父母が住んでいて、たまたまそこで生まれただけで、住んだことはない。それでも、犀星の想いはよく分かる。東京にいても異国だが、金沢に帰ったところで、あのころの街はもうない。人も風景も変わってしまっている。ならば故郷とは、もはや自分の心の中にしか存在しないだろう。
あらかじめ失われた故郷
室生犀星が書いた最初の小説である『幼年時代』はその、失われた故郷を文章の形でよみがえらせる試みである。しかし、当の幼年時代においてさえ、犀星の故郷はあらかじめ失われてしまっている。なぜか。物心ついたときには養子に出されていて、しかもそこから彼は、寺にもらわれていったからだ。
冒頭部分ですでに、主人公の男の子には二つの家がある。実家と今住んでいる家だ。行ってはだめだ、と思いながらも、彼は毎日のように実家に遊びに行く。そしてゆったりとした温かな時間を過ごす。だが、こうした日々も終わりを告げる。もとは武士だった父親が亡くなり、その小間使いだった母は、父の弟のせいで家を追い出され、そのまま行方不明になってしまう。噂ではしばらくして死んだらしいが、定かではない。
主人公は苦しみ、もがき、気づけば学校では乱暴者として通るまでになっている。彼の心に寄り添ってくれるのは唯一、出戻りの姉だけだった。しかしやがて姉も遠くに嫁入りすることになる。自分で作った祠で熱心に祈っていた主人公の姿を見て、隣の和尚さんが、僧侶にならなくてもいいから、寺の養子にならないかと言ってくる。主人公はようやくのびやかな気持ちで暮らせる場所を見つけた。だが彼の抱え続けている寂しさがそれで消えるわけもない。
『幼年時代』には二つのイメージが出てくる。温かくて優しいものと、冷たくて寂しいものだ。温かいものの代表例は杏の果実である。熟れすぎた杏は「温かい音」(9ページ)を立てて地面に落ちる。そうなる前に子供たちは隊列を組んで「優しい果実」(21ページ)を掠奪して回る。もちろん彼らが奪うのは、垣根から道に張り出した枝に付いているものだけだ。金沢の街の大人たちはそうした子供たちを暗黙のうちに受け入れている。
そうした温かな共同体の中心にあるのが主人公の実家だ。実の親子と飼い犬しかいない家族は、寄り添うだけで通じあえる。「隔たりのない総ての親密さが私達親子の上にあった。そんなとき、シロも傍らの草のなかにねむっていた」(51ページ)。だが気づけばそうした家は消え去っている。もらわれていった家で優しさをくれるのは、血の繋がっていない姉さんだけだった。
そして冷たくて寂しいのは何より、北国の自然だ。雪の降る中、すべての音は消え、寂しさだけが残る。「北国の冬の日没ごろは、油売の鈴や、雪が泥まみれにぬかった道や、忙しげに行き交う人人の間に、いつもものの底まで徹る冷たさ寒さをもった風が吹いて、一つとして温かみのないうちに暮れてゆくのであった」(77ページ)。こうした記述を読むと、僕の中の金沢がよみがえってきてしまう。
そうした自然に囲まれた主人公は、もらわれていった家で何とも言えない寂しさを感じる。もちろん継母は可愛がってはくれた。しかし、言葉の端々に隔たりを感じてしまう。そして、また実家に行っていたことを詰られる。自分は一人息子なのに、どうして実家にいられないのか。誰も教えてくれないまま、主人公の心は屈折していく。
安心できる場所を求めて
もっと辛いのは学校だ。些細なことで傷つき暴れてしまう主人公を、先生は目の敵にし、何か理由を付けては体罰を加え、居残りを命じる。昔は自分も子どもだったろうに、どうして先生は自分の心に寄り添うどころか、いたずらに暴力を振うだけなのか。主人公が自分の心を守ろうとして微笑んでも、それがまた先生の怒りを掻き立ててしまう。
「私は学校の『野町尋常小学校』と太い墨でかいた門のところで、極度の嫌悪のために牢獄よりも忌わしく呪うべき建築全体を見た。『私はなぜこんなところで物を教わらなければならないか。』という心にさえなった。あの商家の小僧さんのように何故自由な生活ができないのかとさえ思った」(30ページ)。もっと大きくなれば、こんなふうに暴力を振われたままではいなくてすむのに。そして、もっと勉強して偉くなれば、自分を苦しめる者たちを見返すことができるのに。芸術家になりたい、という犀星の願いの底に、こんな怒りがあったなんて。
失われた実家以外に、主人公がありのままの心を出せる場所はないのか。ほんの少しだけある。自分で作った祠の前、寺の横を流れる犀川の河原、そして寺のお堂だ。川を流れてきた地蔵をまつる祠を幼い主人公は自力で作る。そして、居なくなってしまった実母の無事を祈り続ける。すぐ近くを流れる犀川は美しい水に鮎が泳いでいる。「秋になるとすぐに解るのは、上流の磧(かわら)の草むらが茜に焦げ出して、北方の白山山脈がすぐに白くなって見えた」(68ページ)。この赤と白のコントラストが美しい。そしてまた、主人公がのびのびとした気持ちでいられるのは、住職さんと暮すお堂だ。
こう見てくると、主人公がホッとできるのは、多かれ少なかれ、この世を越え出た場所であることがわかる。祠や寺は神や仏の領域であり、そこでは現世の理不尽も消滅し、正しく清い者が報われる。そして犀川は人間の世界である街に入り込んだ自然であり、そこには善も悪もない。続編『性に目覚める頃』に、和尚さんの茶の湯のために主人公が犀川の水を汲むシーンがある。「汲んでしまってからも、新しい見事な水がどんどん流れているのを見ると、いま汲んだ分より最(も)っと鮮やかな綺麗な水が流れているように思って、私は神経質にいくたびも汲みかえたりした」(86ページ)。
日常から切り離された時間のなかで、犀川の水で淹れた茶を楽しむ。そこはもはや、主人公を苦しめる、冷たい、寂しい人間の世界ではない。その後、彼が芸術の世界に向かったのも、杏や犀川の水の温かさに引き寄せられたからだろう。そしてまた、女性たちに惹かれたのは、そこに実の母や義理の姉の姿を見ていたからに違いない。犀星の温かな作品には、キレのよさばかりが求められる現代文学とは正反対の、もう一つの文学のあり方が示されている。
街の魂を刻む小説
今回、室生犀星について調べていて、僕は勝手に、彼との深い縁を感じていた。若い頃の写真を見て驚いたのは、高校時代の有人である舟木君とそっくりだったことだ。これは金沢の土地の顔なのだろうか。しかも犀星行きつけの本屋は僕と同じ、片町の「うつのみや」だったらしい。うわー。僕がサリンジャーを見つけた店で、犀星は自分の詩が初めて掲載された雑誌を見つけたわけだ。しかも野町小学校の近くにある野町公民館で、僕の母は一時期、学童保育の仕事をしていた。当時僕の家は、野町から犀川沿いに10分ほど遡ったところにある寺町にあった。
犀川の思い出もたくさんある。「うつのみや」で参考書を買って、曇り空の下、犀川の河原を30分かけて家まで帰ったこと。いくらがんばっても自信がなくて、自分に将来なんて本当にあるんだろうか、なんて思っていた。その傍を、犀川の水は淡々と流れ続けていた。そして犀川の花火大会で、空を埋め尽くす火花を眺めながらどんどん川を遡り、ついに花火が爆発している真下まで行ってしまったこと。
そのときには気づかなかったけど、花火の光に赤く染まる犀川を見ながら陶然として歩いていたなんて、なんだかすごく、犀星っぽい瞬間ではないか。今、東京で犀星の自伝的小説を読んでいて、まるで自分の過去を読み直しているようだった。まさに文学とは、文字の形で刻み込まれた街の魂なのだと思う。そして高校時代の僕は、仲間たちのかけがえのない優しさに囲まれて生きていたことに気づいた。
参考文献
室生犀星『或る少女の死まで 他二篇』岩波文庫、2003年。
室生犀星『室生犀星詩集』岩波文庫、1983年。
2-2.金沢編 古井由吉「雪の下の蟹」〜男たちの体の群れ に続く