2-0.金沢編 プロローグ〜真っ黒いルーの謎のカレー

この連載が『「街小説」読みくらべ』というタイトルで書籍化することになりました! 2つの街についての書き下ろしもあります。2020年7月10日発売予定です。詳細はこちらからどうぞ。

 父親の転勤で金沢に引っ越したのは中学二年生の終わりだから、80年代の半ばかな。それまでは東京の多摩地区にいて、金沢がどんなところかなんて全然知らなかった。だから着いたときには不安だったな。家に向かうタクシーの中からずっと街を眺めていたのを覚えている。もう3月だったけど、曇り空の下で街は灰色だった。

 4月から学校に通い始めて驚いた。それまで2年間私立の男子校に通っていたから、急に女子が現れたことに抵抗感があった。もちろん小学生のときは共学だったんだけど、小六から中三の違いは大きいよ。そのときの僕にとって彼女たちは、元気でセクシーでとにかくもう、得体が知れなかった。

 言葉も全然違っていた。僕が「それでさ」なんて言うと、ものすごく東京風に響くんだよね。で「わしさ」とか変な感じで真似された。それから「そうだよ」と言うと「女か!」とか言われて。どうも「よ」で終わるのが女っぽく響くらしい。

 じゃあ地元の子たちがどういう言葉で喋っていたかというと、標準語でも関西弁でもない未知の言葉だ。「あのおーんね、それでぇーんね」(あのね、それでね)、「ゆーとぅげんていや」(言ってるじゃないか)、「だらじゃいや」(バカじゃないの)、「行くうぇ」(行くよ)みたいな感じ。語彙もリズムも音も、それまでテレビで聞いたことがあるあらゆる日本語と違っている。おまけに自分のことを「わし」と言っている女子もいるし。

 このままではカッコつけたやつだと思われて周囲に相手にされないから、金沢弁を必死で覚えた。そのための語学教材もないので、周囲の人たちが話す言葉を文章ごと音で暗記して、自分でもしゃべれるようにがんばったのだ。もはや外国語である。努力の甲斐あって、数年経つうち地元の子と間違えられるくらい話せるようになった。今はだいたい忘れてしまったけど。

 言葉はどうにかなっても、気候には慣れなかった。特に冬はずっと曇りの日が続き、信じられない量の雪が降ってくる。歩き方が分からずに滑り、そのまま溝にはまったりした。長靴ではなくスノーブーツを履くのが流行っていたんだけど、濡れたブーツを乾かして、朝履いて学校に行くと、途中でズブズブに濡れてくる。なんてことはない。乾いていたのではなくて、単に凍っていたのだ。ああ、寒い。

 地形にも慣れなかった。街の両側に山脈がそびえていて、開けているのは北の海側だけだ。おまけに雲で空も低い。関東平野から来た僕は、ものすごく狭いところに閉じこめられた気がした。どうにかして早くここから出ていきたい、と深刻に思った。

 考えてみれば、僕のこうした脱出願望が、今の仕事に繋がっている気がする。そのうち、ラジオで「英語会話」や「百万人の英語」を聞き、うつのみやという大きな書店にある洋書コーナーでリーダーを自分で買いまくってはどんどんと読むようになった。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を原書で買って挑戦もしたのもこのころだ。これには影響を受けすぎて、大げさなしゃべり方が身についてしまった。

 良い仲間ができたのもこの街でだ。金沢大学附属高校という、犀川を遡って野田山の麓にある高校に入った僕は、気づけばかなりのおしゃべりになっていた。昼休みの理科室で弁当を食べながら、その日にあったことや読んだ本のことを、10人くらいの友達の前で面白おかしく話して聞かせる。気に入ってくれた先生も聞きに来てくれていた。今僕はけっこう書店イベントをしているのだが、話している内容はほとんど当時と変わっていない気がする。

 中でも特に仲が良かったのは、海沿いにある金石(かないわ)という街から自転車で片道一時間かけて通ってくる、味噌屋の息子の舟木君と、街の反対側、浅野川のほうに住んでいる北君だった。三人で自転車でよく街中を走り回ったな。金沢は車で回ると小さいんだけど、自転車ではけっこうしんどい。坂も多いしね。それでも平気で何時間でも走っていた。台風がきても気にしなかった。

 結局僕はその後、東京の大学に入り、外国研究の道に進み、ロサンゼルスの大学院にまで行ってしまった。脱出願望は大いに充たされたけど、そうなるとときどき、狭い街の狭い人間関係の中で温かく暮していたときのことが懐かしくなる。数年前、同窓会の参加も兼ねてものすごく久しぶり金沢に行った。和菓子は美味しいし、21世紀美術館はお洒落だし、お寺や庭園は素敵だしと、ものすごく堪能したんだけど、やっぱりそれは観光客の視線でしかないんだよね。

 数百円を握り締めて、真っ黒いルーの謎のカレー(今で言う金沢カレー)を高校の横の食堂に食べに行ったときの気分とか、犀川の水を眺めながら、ここに飛び込んだらどうなるのかなあ、と思ったときのこととか、名所旧跡もグルメも関係ない、ただの金沢が今でもふっと心に浮かぶ。ああいう記憶の断片が今の自分を確実に作っているんだよね。

2-1.金沢編 室生犀星『幼年時代』〜杏の温かい音 に続く


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