1-3.本郷編 大江健三郎「死者の奢り」〜死者たちの声を聞く

 東京大学を舞台とした作品で有名なのは、何と言っても夏目漱石の『三四郎』と、大江健三郎の短篇「死者の奢り」ではないか。『三四郎』は熊本から出てきた主人公が希望に満ちてキャンパスを闊歩する話だったが、その約半世紀後に書かれた「死者の奢り」はまるで違う。なにしろ主人公は医学部の地下に閉じこめられたまま、水槽に浮かぶ死体を延々と運び続けるのだから。

 主人公である彼は東大の男子学生で、アルバイトの募集を見てやってきた。医学部の建物の地下にある巨大な水槽を充たした茶色っぽい液体の中には、戦前から現在までの医療解剖用の死体が無数に浮かんでいる。彼の仕事は、それを新設の水槽にできるだけ早く移し替えることだ。英文学の授業で会った女子学生、そしてここに30年も務め続けている管理人と、彼らはたった3人で協力して必死に作業を進める。

 滑る死体をゴム手袋で掴んだり、木の札を付け替えたり、台車に乗せたりなど、作業は困難を極める。だがだいぶ作業が進んだところで、思わぬ事実が発覚する。実は古い水槽の死体はすべて火葬場へと運ぶはずだったのに、事務所が間違った指示を出していたのだ。しかたなく、主人公たちは新しい水槽から死体を取り出し始める。けれどもすでにその中の液体は茶色く濁ってしまっていた。

「死者の奢り」に出てくるキャンパスは暗い。朝、銀杏並木の下を通って主人公は事務所まで歩いて行くが、夕方地下から出てくると、辺りは霧に包まれている。「夕暮れた空気の奥で、講堂の時計塔が霧に包まれ、城のようだった。図書館の煉瓦壁にも、半透明な霧の膜がからみつき、よく発達した黴に似ている」(44ページ)。なぜ黴のように見えるかと言えば、建物があまりに古びているからだ。

 ここには『三四郎』に出てきた、輝く立派な建物を見上げるという感覚はない。むしろ、積み重なった時代の重さに主人公は押しつぶされそうだ。まるで80年代末の僕のように。主人公は医学部の地下に下っていき、そこで大量の死体が保存されている巨大な水槽と向い合う。大学生のころ僕はこの作品を読んで、そんなアルバイトがあるのか、と思ったが、実際には存在しないのではないか。なにしろ死体の管理が雑すぎるから。けれどもこれは無根拠な空想ではない。

死者の水槽と図書館

 硬い物と化した死体たちはやがて主人公に低い、聞き取りにくい声で語りかけ始める。たとえばこんなふうに。「そうとも、俺たちは《物》だ。しかも、かなり精巧にできた完全な《物》だ。死んですぐ火葬された男は《物》の量感、ずっしりした確かな感覚を知らないね」(19ページ)。最初は混じり合っていたその声を、徐々に主人公はきちんと聞き分けられるようになる。そして彼らと対話できるようにまでなるのだ。撃たれてしまった脱走兵、かつては胸を張り歩道を闊歩していた中年女性。死者たちに触れ、一体一体識別し、移動させるこの作業は、言わば彼らの声に耳をチューニングを合せる訓練になっている。

 これは奇妙な作業に思える。だが人は誰も、死者に耳を傾けるとき、こうした態度を身につけざるを得ないのではないか。僕らは普段、死者のか細い声を求めて古い書物を開く。そこには、僕らが見知らぬ社会を生きた、見知らぬ言語を話す人々の声が硬直した物として閉じこめられている。文脈も分からぬままそうした声に身を浸していると、少しずつ僕らは死者たちの声を聞き取り、理解できるようになってくる。

 ならばこの水槽は、ある種の図書館でもあるのだろう。『三四郞』で主人公は思う。「奥まで行って二階へ上って、それから三階へ上って、本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙の臭いを嗅ぎながら、――読んで見たい」(46ページ)。この生きた者を近づけずに読む、という図書館の快楽を、半世紀後に「死者の奢り」の主人公はかなえる。ただし本郷からは低い場所、隔離された地下室で。

 そう考えてくると、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる夢読みの作業もまた「死者の奢り」の延長線上にあることがよくわかる。外界から隔離されたファンタジー世界で主人公は、光を見ることができないようにナイフで目を細工されたあと、獣の頭蓋骨に閉じこめられた物語をひたすら読み続ける。主人公がいなければ歴史は消滅してしまう。だが過去と語り合う彼は、現在との通路を見失う。

見えないものに寄り添う

 話を戻そう。「死者の奢り」に出てくる水槽と通常の図書館とは、大きな違いがある。もちろん、そこに実際に死者の身体があるかどうかだ。本の場合、死者たちの言葉は紙に印刷された記号に変換されている。読み手が訓練を積むことでその記号からは声が立ち上がってくるものの、そこに文字通りの身体は存在しない。だが水槽では、死者たちは重さを持ち、硬直した腕で台車の進行を妨げ、手から滑って深く沈んでいく。

 そうした、コントロールできない死者たちの自主性に体をなじませていくうちに、主人公の服に、死者たちの臭いが染み込んでくる。だからこそ、地下に降りてきた医学部の学生は主人公を蔑みの目で見るし、教授はこう言うのだ。「君たちの世代には誇りの感情がないのか?」(39ページ)。そのとき、教授は主人公を、社会から隠すべき卑しい存在とみなしている。教授にとって主人公も管理人も無数の死体も、ただのけがれでしかない。

 三四郎にとって、あるいは森鴎外『青年』の主人公にとって、書物を読むこととは、文化レベルを向上させ、階級を上昇していくという、上向きの運動を意味していた。彼らは輝く西洋文化に憧れ、アルファベットという神秘の文字を読み、その魅力を自分の身にまとおうとしていたのだ。けれども「死者の奢り」の主人公にとって読むこととは、無名のままで死んだ女性や、脱走し汚辱にまみれて殺された兵士の声を聞くことを意味している。すなわちそれは、限りない下降の運動なのだ。

 1957年に「死者の奢り」が書かれた当時、すでに戦争は10年以上前に終わった過去に属していた。そんなものみんな忘れて、明るい未来に向かって行こうとしていたのだ。そこに、過去の思いや苦しみを抱えた死者たちが、硬直し茶色になっているとは言え、身体を具えて現れてもらっては困る。そうした圧力を、デビュー当時の大江健三郎は感じていたのではないか。だからこそ彼はキャリアの最初の時期に、死者の側に立つ作品を書いたのだろう。見えないこと、いいことになっている人々に寄り添うという文学者としての彼の姿勢は、僕にはとても優れたものに思える。

東大の女性の変化

「死者の奢り」の新しさはそれだけではない。女性が主人公と対等な存在として登場するのだ。『三四郎』では女性たちは美的な鑑賞の対象だった。そして『青年』では反対に主人公を眺め、操ろうとする。だが「死者の奢り」は違う。ともに死体運びのアルバイトをする女子学生と主人公は、英文学の授業で会ったことがある。同じ試験を受けて入学している以上、彼女と主人公は、知的レベルは同じだ。だから二人は同じ立場で議論をする。

 ならば彼らは理解し合えるかと言えば、そんなことは全くない。女子学生がこのアルバイトをしているのは、誤って妊娠してしまい、中絶の費用を自分で稼ごうとしているからだ。自分の人生にも確信が持てないのに、子供の人生を引き受けることなんてとてもできない、と彼女は語る。ならば中絶に納得しているのかといえばそうでもない。お腹の子供はこの世界で果たすべき役割があるはずだ。それを今、自分の意思で消し去るほどの確信もまた彼女にはない。

 そこで主人公は不用意にこう言う。

「君は彼を生むつもりがないんだろう?」
「ないわ」
「それなら、簡単だ」(34ページ)

 もちろん人生に簡単なことなんて存在しない。だから女子学生は怒る。「それが殺されたり、育ちつづけたりするのは、私の下腹部の中でなのよ。私は今も、それにしつこく吸わぶられているのよ。傷みたいにそれの痕が残るのは私によ」(34ページ)。今は生むべきではない、ということは彼女も理屈ではわかっている。けれどもそうした意識的な判断に身体が抵抗する。聞き取るのが難しい、微かな、けれども確かな声で身体は理性に逆らうのだ。

 胎児と死者は似ている、と彼女は言う。「両方とも人間にちがいないけど、意識と肉体との混合ではないでしょ? 人間ではあるけれど、肉と骨の結びつきにすぎない」(42ページ)。しかしそうでないことは彼女もよく分かっている。もし胎児が精神のないただの肉ならば、そもそも彼女は苦しむことはないだろう。だが、死者たちが命を失ったあとも語りかけてくるように、胎児もまた、完全な人間として生きている。ただ生のあり方が通常の人々とは異なっているだけだ。ここで、精神と身体という二分法は否定され、女子学生もまた、子供を産むことを唐突に決意する。だがその瞬間、彼女は死体から床に流れた液体に足を滑らせて転び、強く体を打ち付けてしまう。

 死者たちに一貫した尊敬の念を抱いているのはここの管理人だ。彼は死体の腕を曲げて運搬しやすくしてやり、乱暴に死体をトラックに乗せる雑役夫たちに「大切にあつかってくれ」(55ページ)と懇願する。ここを読んで僕は、J・M・クッツェーの『恥辱』を思い出した。主人公は女子学生を相手にセクハラ事件を起こし大学を追われる。辿り着いた動物クリニックで彼は、安楽死させられた犬たちを丁寧に焼却炉まで運び葬るという仕事に就く。「おれほど利己的な男がすすんで死んだ犬にお仕えしようとは、おかしなものだ」(225ページ)。

 死んだ犬にこれ以上の苦痛を与えないこと。そのとき、動物と人間、死と生の境界は乗り越えられている。そして彼は、犬に自分を与えることで、反対に大きな何かを与えられているのだ。「死者の奢り」もまた、死と生について語りながら、こうした境地を指し示しているように思える。

参考文献
大江健三郎『死者の奢り・飼育』新潮文庫、2013年。
J・M・クッツェー『恥辱』鴻巣友季子訳、ハヤカワepi文庫、2007年。
村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫、1985年。

2-0.金沢編 プロローグ〜真っ黒いルーの謎のカレー に続く


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