特別鼎談:大谷能生×鈴木淳史×栗原裕一郎 「音楽」で読み直す2010年までの村上春樹・前編

『村上春樹の100曲』の発売を記念して、2010年に発売された『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)に収録された、大谷能生さん、鈴木淳史さん、栗原裕一郎さんによる鼎談を特別公開します。『村上春樹の100曲』とあわせて読むと、この8年間で村上春樹の作品中の音楽の扱いがどのように変化していったかがわかるかもしれません。それでは、じっくりとお楽しみください。


栗原 えーと、まずはお疲れさまでした。今回は実は、大谷さんに無理を言って村上春樹を読んでもらったんだよね。

大谷 頑張りましたねー。全部読みましたよ。

栗原 短篇まで?

大谷 短篇も。ほぼ全部。

栗原 えらい!(笑)

鈴木 それまでは全然?

大谷 読んでないですね。でも『1Q84』のBOOK1でやめました。そこで力尽きました。どうせ先を読んでも同じなんだろうって。

栗原 この本(『村上春樹を音楽で読み解く』)の企画が立ち上がったとき書き手をどうしようということで、ジャズは大谷さんだろうと、ちょうどライブやってたので原宿のVACANTってところまで行って頼んだんだよね。そしたら「春樹、読んだことない」って言われていきなり頓挫しかけて(笑)。

大谷 そうそう。直接ライブの現場で原稿の依頼があったという。最初は断ったんだけどねー。

栗原 でも「ジャズわからない」と「春樹読んだことない」のどっち取るかって言ったら企画的には後者じゃない。「じゃあ、今から読んでくれ」って(笑)。

大谷 うーんと思って、締め切りを聞いたら、なんとか読めば読めないこともない日取りだったこともあって、まあ、引き受けたんですけど、やっぱ大変でした。

栗原 大谷さんが村上春樹に接触しなかったのは何か理由があるの?

大谷 流行っていたからじゃないですかね。ちょうど『ノルウェイの森』の大ヒットが中学生から高校生のころでみんな読んでましたからね。一番生意気なときだから、「そんなのは読むものか」と。

栗原 『ノルウェイの森』が87年だから、『羊をめぐる冒険』とか『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とか中学で読んでてもおかしくないけどそっちは?

大谷 SF少年で「純文学なんてケッ!」とか思ってましたから。

鈴木 村上春樹は純文学ってイメージが強かったんだよね。

大谷 そう。文芸誌から出てきた人っていうのがあって。僕はヴォネガットとか好きだったんですけど。

栗原 だったら繋がる線十分じゃない。

大谷 あるはずなんですが、早川書房から出てなかったから(笑)。早川から出てたら読んでたと思う。......あっ! エッセイは読んでた記憶がある。「村上朝日堂」シリーズ。あと『ポートレイト・イン・ジャズ』は書評を書くために読んだ。それにしても、こんなに小説を読んだのは久し振りかもしれない。

栗原 『ポートレイト・イン・ジャズ』の印象は?

大谷 情報が正確。間違っているところがひとつもないですね。それだけじゃなくて、60年代のモダン・ジャズの知識が膨大にありながらあんま出さないところが、なんとなく長いことジャズ喫茶店主をやっていた人なんだな、と思わせますよね。70年代にジャズ喫茶を開いた人の店には普通はないレコードがかなりあるのではないかと。

栗原 村上春樹がジャズ喫茶を開いたのは74年で、当時ジャズ喫茶の主流って言えばビバップ以降でしょ?

大谷 74年にビリー・ホリデイをかける店なんて特殊な店だったと思うんですよね。

栗原 ジャズ詳しくない人間から見ると、白人ウエストコースト・ジャズ命みたいな印象を受けるんだけど。

大谷 でも、そうじゃないんですよね。ウエストコースト・ジャズは趣味というか専門で、掘り下げている人が少ないというか、どちらかというとジャズ全体のなかではマイナーなジャンルなんですよ。あと、キャピトルとか西海岸のサウンドってことで、おそらく根本にはビーチ・ボーイズの存在があると思うんですよね。自分でも言ってると思うんだけど、西海岸のモノが好きなんですよ。白人ジャズが好きなのも、基本ラインは押さえておいて、そのなかでひねくれ者として白人がやっているジャズ、作り物としてのモダン・ジャズに対する意識が相当あるなと。『ポートレイト・イン・ジャズ』の表紙なんてビックス・バイダ--ベックですからね。ビバップ・オリジネイターはニューヨークのサウンドが中心だったから、「じゃ私はこっち」ってことで、かなり頑固な感じで趣味をまとめていったんじゃないかなあと。

鈴木 クラシックに関しても、バリバリの本場ドイツの演奏家よりも、アメリカの演奏家を取り上げますよね。一番わかりやすいのは『風の歌を聴け』で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲のレコードを買うシーンがありますよね。バックハウスかグールドかで迷ってグールドを買う。『意味がなければスイングはない』を見ても、アメリカナイズされた演奏家が好きなんだという気がします。『1Q84』に出てくるヤナーチェクの『シンフォニエッタ』もアメリカのオーケストラで、普通あれを選ぶ人ってあんまりいないというか、割と特殊な演奏なんですよね。

栗原 ジョージ・セル。

鈴木 ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団のサイボーグみたいな演奏から小説が始まるという(笑)。もうひとつ小沢征爾とシカゴ交響楽団の『シンフォニエッタ』も出てくるんですが、それもまたアメリカっぽい機能的なオーケストラを、勤勉な日本人コンダクターがすごく真面目に指揮しましたという感じ。

栗原 ロック・ポップスに関してもやっぱりアメリカが中心的で、基本的に60年代まで、ですね。ビーチ・ボーイズ、ボブ・ディラン、ドアーズが特権的な感じであるんだけど、60年代末でロック・ポップスの神話、マジックみたいなものは終わったという捉え方をしている。70年代はそういう60年代的価値観の余波がまだ何とか生き残っていた時代だったけど、80年代になると完全に潰えてしまうという認識です。『ダンス・ダンス・ダンス』でMTV以降のロック・ポップスに冷淡なのは、そういう流れを踏まえると、だからほとんど必然みたいな話。

村上春樹と音楽の関係

鈴木 具体的に80年代のロックについて書いてある文章はあるんですかね?

栗原 本人は対談とかでちょろっと触れてたりはしますけど、春樹論のほうはあっても60年代で、80年代以降のロック・ポップスに的を当てたものはほとんどないんじゃないかなあ。最初、アメリカナイズされた都市小説みたいな受け取られ方をしていて、音楽に関しても単なる小道具、ガジェットと捉える人が多かったから、音楽にフォーカスを当てて論じられたことが意外と少ない。90年代に入ってようやく「春樹小説における音楽はギミックではないのではないか」という論が出てくるんだけど、でもいまだに雰囲気づくりの記号というのが一般的ですよね。

大谷 いっぱい論評がありますけど、いわゆる記号的、固有名詞が特徴という切り口がメインというか、まず押さえるところですよね。

栗原 記号的、記号的って言われるけど、音楽に注目してあらためて読んでみると、全然イメージで流れてはいないんだよね。

大谷 それは僕も、読んでみて最初に思ったことです。

栗原 音楽をめぐる世界観にブレがないというか、むしろ音楽を軸に物語が組み立てられているようにさえ思えてくる。小説の根っこに関わってますよね。

大谷 村上春樹の音楽は入れ替え可能な記号=商品の羅列と思われていたんだと思うんです。でも、シダー・ウォルトンはトミー・フラナガンではないし、トミー・フラナガンはデューク・ピアソンでもない。細かいところが聴き分けられて、ビル・エヴァンスのトリオのベースやドラムの面子が変わったら全然違うものになるといったような、演奏の具体性をきちんと把握しないと音楽はやっていられないし、音楽批評も出来ないし、もちろんジャズ喫茶のオヤジは出来ない。でも文芸系の人にはそれがわからない人が多い。代表的なのは中上健次。アルト・サックスとテナー・サックスの違いがわからないというのは音楽を聴いたうちに入らないと思う。小林秀雄の「モオツァルト」にも「こいつは何も聴いていないだろう」と思うわけ。チェロとヴァイオリンの区別がつかない人に音楽を語ってほしくない、というのは音楽関係者はみんな思うことだけどね。

鈴木 わからないのにあれだけ広げられるのはすごいんだけどね(笑)。

栗原 今回いろんな「村上春樹と音楽」論を読んだけど、クラシック評論の喜多尾道冬さんが「シューベルトは異界への入り口」と言い切っていたのが面白くてね(『レコード芸術』2004年1~4月号)。文芸の人でこんなこと言う人はいないなあと。

鈴木 シューベルトの曲に村上春樹を結び付ける人は文学にはいないんだ。

栗原 ピアノ・ソナタ第17番 D850が異界への入り口になっているなんて『海辺のカフカ』論は見たことない。

大谷 ベートーヴェンじゃダメ、シベリウスでもアウト。じゃシューベルト、それもD850というディテールが村上春樹は正確ですよね。『ダンス・ダンス・ダンス』で80年代ポップスの屑を羅列しているけど、これもすごい正確。音楽を扱うときにはそういう細部がわからないとダメなんですよ。

栗原 それを区別するのは文芸の人にはハードルが高いでしょう。あの羅列はだいたい「記号」で流されていたし。

大谷 細部を書くことで生まれるリアリティが確実にあって、そういうところにこの時期まで文学の人は触れてこなかった。それで風俗小説として扱われてきたんじゃないかと。

鈴木 『意味がなければスイングはない』でプーランクを取り上げているでしょ。フランスの六人組周辺の音楽を取り上げるときは、おしゃれにサティとかを選ぶほうが通りがいいじゃないですか。でもドビュッシーでもラヴェルでもなくプーランク。プーランクって村上春樹っぽいんですよね。サービス精神があって、極端なところがあって。

大谷 基本はマイナーポエット。

鈴木 ああいう好みを見ると、村上春樹は本当に音楽が根っこにあるんだなとわかります。

大谷 絶対そうですよね。最初は、文学の人たちは頭がいいだろうから(笑)、プーランクとミヨーの違いがきちんとわかる人が集まっている業界かと思ったら、誰も何もわからなくてガッカリみたいな。

栗原 クラシックはまだ重なる部分があるかもしれないけど、ロックやポップスやジャズは辛かったんじゃないかな、特に最初のころは。

大谷 知らないですからね。ビーチ・ボーイズとローリング・ストーンズの区別がつかない人ばかりだから。

栗原 文芸評論家だけならまだしも、古今東西あらゆる音楽に通じている北中正和みたいな人でさえ記号扱いしちゃっていたくらいだから根が深い(『ユリイカ』1989年6月臨時増刊号)。

鈴木 「記号扱いするのがカッコイイんだぜ」という時代だったんですよね。

栗原 初期の川本三郎の評論が尾を引いているんだよね、たぶん。あと村上がデビューした79年当時というのは、片岡義男のアメリカン・テイストの小説が角川文庫でブームになっている最中で、前後してわたせせいぞうの無国籍マンガ『ハートカクテル』がヒットして、そういうのと同じ類だと思われていたところがあったんじゃないかなあ。大瀧詠一の『ロング・ヴァケーション』も81年ですね。

鈴木 田中康夫とも同時期?

栗原 田中康夫のデビューは80年だからまあ同時期ですね。このへんについて文芸評論の文脈でよく言われるのは、江藤淳のブレ。江藤は、村上龍をけちょんけちょんに貶して、村上春樹は黙殺したのに......

鈴木 田中康夫だけは絶賛した。

栗原 そうそう(笑)。「それは何でか?」というのを加藤典洋とか大塚英志がさも重要そうに一所懸命やってたんだけど、文芸評論という辺境から離れちゃうと、まあどうでもいい話だよね、

大谷 でも、そのあたりで文芸評論の人たちは村上春樹を褒めるにせよ貶すにせよ、手も足も出ていない感じがするんですよ、歯に物が挟まったようなものばかりで。特に初期から『アンダーグラウンド』までの作品をきちんと評論しているものはあまり見なかった。

栗原 村上春樹というのは非常に立場がややこしい人で、大谷さんが言ったように純文学の出ではあるんだけど、文壇的にはどっちかというと冷遇されてたんですよね。文壇づきあいも嫌いだし。最初に目をつけたのはむしろ『ブルータス』とか『宝島』みたいなカルチャー誌だった。それと『ノルウェイの森』が異様なヒットになったせいで、その前後でも論じられ方が変わってくる。

大谷 結局、芥川賞は獲っていないですよね。

栗原 それも根深い問題として残ってるんだけど、芥川賞とは別に批評党派の派閥争いみたいなものの指標に使われるようになっちゃった面もあって、なかなかフラットに扱われにくい作家になってしまった。

大谷 「蛍」とか初期の短編で芥川賞を獲っていれば人生が変わっていたんじゃないかなー。あそこで獲れなかった後の本気が、『ノルウェイの森』に現れているように思いましたよ。「文芸批評家はバカだから全然わからないんだろ。それなら売れる物を書いてやる!」って。短編のネタを全部入れて、力業でディテールを詰めて。だから、濃密なんですよ。

適当すぎる『羊をめぐる冒険』

大谷 今回最初から読んだんですが、たしかに出来にばらつきがありすぎるとは思いましたね。

栗原 一番良かったのは?

大谷 『ノルウェイの森』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。あの二つがずば抜けていいですね。

栗原 『羊をめぐる冒険』は?

大谷 全然ダメ。あれはどうにもならないと思う。でも、一番ダメなのは『海辺のカフカ』。

栗原 そう? 『羊』が一番いいって人も多いし、俺もけっこう好きだけどな。最初に読んだのもたしか『羊』だった気がする。鈴木さんは最初に読んだのは何でした?

鈴木 僕の最初は『風の歌を聴け』だと思うんですが、読んだのは高校に入ってからですね。ひとつ選べと言われたら『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。完成度が一番高いと思う。

大谷 『世界の終り~』は小説として読みでがありますよね。『羊』は読めないなあ。適当すぎるよ。なんだかよくわからないけどボーンと爆発するとか、なんだこりゃっていう。最後に女がいきなりいなくなるし(笑)。

鈴木 あれはびっくりするよね(笑)。

大谷 適当に選んだホテルに事件のカギを握る羊博士がいたとか、ふざけているのかと。

栗原 あれはチャンドラーの『ロング・グッドバイ』を枠にしていろいろ盛り込んでいるんだよね。

大谷 そうだとしても稚拙すぎますよ。『世界の終り~』のほうがよくできてる。

栗原 そりゃそうなんだけど、でもああいうとりとめのなさというか、つかみどころのなさをダメと言ったら、村上作品ほとんど全部ダメということになっちゃわない?

鈴木 いい加減なところで成り立ってしまう、読めてしまうのが逆にすごいと思うけどね(笑)。

大谷 僕は「なんでこんな本を読んでるのか」と何回も思いましたよ。

栗原 村上春樹のモチーフは『羊』でほぼ出揃ってるし、世界観も完成している。その意味ではやっぱり重要。『1Q84』なんて『羊』のリメイクみたいなもんだし。『羊』がダメなら『ダンス・ダンス・ダンス』とかもっとダメでしょ?(笑)

大谷 全然ダメ。よくない。

鈴木 『ダンス・ダンス・ダンス』のほうがもっとおかしいでしょ。

大谷 内容がおかしいのはどうでもいいんだけど、ものの置き方とつなげ方がダメ。『羊』で唯一よいと思ったのは、最後「エアメイル・スペシャル」のチャーリー・クリスチャンのギター・ソロをコピーして弾いた後に、ギターをバーンと叩き壊すところ。このシーンは美しいと思った。音が出た後に何かが起こるというモチーフをよく使うんですよね。『世界の終り~』はそういう手順でやっているじゃないですか。耳が聞こえなくなるとか、滝をくぐるとか、そういう文章の組み立てがあればまだ読めるんだけど、いきなり悪寒がするとか冗談じゃないよ、と思うんですけどね。

鈴木 論理性がないということですか?

大谷 論理性というか、たとえば固有名詞の使い方でも、きちっと位置づけて置いてあれば納得できる。そういう世界だと読める。『海辺のカフカ』がひどいのは、それが曲のタイトルだということですよ。途中で気がついて「嘘つけ!」って。

鈴木・栗原 あはは。

大谷 「適当につくるんじゃねえよ!」ってなるじゃないですか。

鈴木 昔のヒット曲という設定なんだよね。

大谷 「そんなヒット曲ねえよ!」って、怒りで目の前が暗くなったのを覚えていますよ。しかも、すごくいい曲として書いている。これは村上春樹としてはありえないと思うんです。このあたりはちらっと原稿でも書きましたが(笑)、音楽に関してはこれまでディテールをしっかり押さえて置いていくという作業をやってきた人が、ここで架空の音楽を使ってはいかんだろうと。

鈴木 確かに......いけないね。

栗原 なるほど(笑)。

大谷 しかも、その曲をつくって歌った人がいたとか死ぬとかバカじゃないのと。それでもうダメだと思いましたね。だって、音楽だけはそういうことをしないというのがジャズ喫茶の店主の基本じゃないですか。

栗原 そこでジャズ喫茶マスターのモラルが!(笑)

大谷 架空の作家を使って架空の作品を出しても、そのまわりを音楽や映画のディテールで固めていくというやり方を最初からやっていたでしょう。そういう手続きが『羊』も『カフカ』も甘すぎる。あんなぼやっとした話にきちっとしたディテールを乗せなくて何になるのと。「羊男」とか適当すぎるよ。

栗原 羊男って最初は謎だったよね。「羊」が乗り移るとかもわけわかんないし。

鈴木 羊男は何かという解釈がいろいろと出たよね。

大谷 意味がわからないし、名刺とか燃やすし。虚構なのかリアルなのかはっきりしてくれと。

栗原 名刺を燃やすのが何でいけないの?

大谷 名刺に名前が書いてあって、業界の人なら誰でも知っている黒幕だというのに、その名前自体は書かないで、で、すぐその名刺を燃やすわけ。名前があるのにすぐ消しちゃうって、作品世界に固有名詞を出せないから都合よく消してるわけじゃないですか。女の子がいなくなるのと一緒ですよ。小説の構造上、固有名詞を出すと壊れちゃう話だから。「鼠」とか「羊男」とか寓話にしているのに、名刺にはちゃんと名前が刷ってあって、でもすぐ燃やして、話がそのまま進んでいく。ハードボイルド小説としてありえない。

栗原 ハードボイルド小説じゃないから(笑)。じゃあ「ハンプティ・ダンプティ」なんていうのでも名前がちゃんと出てきさえすればいいわけ? 「ジョニー・ウォーカー」とか「カーネル・サンダーズ」とか。

大谷 「ハンプティ・ダンプティ」でも名刺にちゃんと書いてあればいいんですよ。誰でも知っていてパワーがあって、あなたを社会的に殺すのは簡単だとかいう設定で、名刺まで出してるくせに、その名前が書けないから燃やして消しちゃう。ずるい。

鈴木 中途半端に寓話が入っているのがよくない?

大谷 最初から寓話なんだと思うんだけど、そのへんが中途半端で読む気がなくなる。

栗原 俺はそこは引っかからなかったなあ。

大谷 超引っかかりましたよ。なんで固有名詞を燃やしちゃうのって。その後も一切出てこないじゃないですか。その点、『ノルウェイの森』はすごく面白いし、本気を感じましたよね。

栗原 音楽の使い方も?

大谷 そうですね。何十曲も弾いた後にセックスするとか、バランスが取れているというか、自分の力で話を進めている感じがあって、読みでがありました。

後編につづく

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初出:『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社、2010年)

初出時タイトル:「更に深く、ハルキの森の、茂みの奥へ......!?」

村上春樹の100曲