1-2.本郷編 森鴎外『青年』〜鴎外と性の揺らぎ

 続いて森鴎外の『青年』である。漱石の『三四郎』が1908年に書かれて、それを踏まえて1910年から11年にかけて鴎外が書いたのがこの『青年』だが、作品の様子はだいぶ違う。『三四郎』では若い女性たちは見られる対象だったが、『青年』では見る主体である。誰を見るのか。主人公である美青年の純一だ。

 純一は山口県(作中ではY県)から東京に出てきたばかりの青年である。学生かと思いきやそうではなく、だからと言って仕事をしているわけでもない。では何をしているのかと言えば、当時流行の自然主義文学にかぶれて、ぜひともそうした作家になりたいと考えている。だから、田山花袋と並んで最先端の存在である正宗白鳥(大石)に会いに行く。でもほとんど相手にはされないのだが。

 それも当然で、純一が書いているものと言えば、断片的な日記ぐらいだ。で、残りの時間は本郷界隈を散歩したり、東大の医学生である木下杢太郎(大村)と文学談義をしたりする。そしてひたすらフランス語の本を読む。故郷にいたフランス人宣教師から学んだのだが、まあとにかく彼は恐ろしいほど読める。ラシーヌからユイスマンスまで、フランス語が母語であるようにがんがん読んでいく。昔の書生はこんなに外国語が読めたのだろうか。

 どうして彼がこんなふうにして暮らせるのか。実家が大金持ちで、働く必要が全くないからだ。けれども、心中は焦っている。こんなことをしていて作家になれるのか。しかし作品を読んでいて読者の目に付くのは彼の精神的な苦悩ではない。彼の美貌に惹きつけられた複数の女たちとの、うっすら恋愛っぽい関係ばかりだ。

 特に純一には恋愛をするつもりはない。そのうちしてみたいが今ではない、なんて本人は言っている。けれども女たちは彼を放っては置かない。彼の下宿には大家さんの知り合いである、同年代のお雪さんが頻繁に遊びに来るようになり、劇場に行けば仮面のような美貌を持つ謎の未亡人、坂井夫人がやってきて、夫が集めていたフランス語の本を借りに家まで来なさいと言い、打ち上げに行けば流行の芸者おちゃらが、今度はあなた一人で来てねと迫る。

 そのたびに彼は動揺し、思い通りにあやつられてたまるか、と反発し、でも自らの内なる性欲に揺さぶられる。ついに坂井夫人が逗留している箱根の温泉を訪ねれば、彼女と一緒に岡村という男が先客でいて、裏切られた、と純一は思う。でも彼は別に坂井夫人を愛しているわけでもない。そして新聞のゴシップ欄に、芸者のおちゃらはイケメン狂いと書かれているのを見て、まんざらでもない気持ちになる。

当時の文学青年のリアル

 何というか、作品をいくら読んでいても純一がまったく小説家に向かって進んでいかないところがいい。たぶんこのまま小説は一作も書かず、お雪さんと結婚して、結局は有能な銀行の役員なんかになりそうな気がする。鴎外はこうして、明治の終わりの文学青年が実際にどういうふうだったのかをリアルに捉えているのだろう。

『青年』では複数の境界が乗り越えられ、あるいは曖昧になる。そして境界の両側が混ざり合う。出てくる場所は東京近辺だけだが、常にここではない場所としての山口県が純一の意識の中にはある。東京では街はどんどんと変わっていくが、故郷では時間は昔と同じくゆったり流れている。彼にとって東京の言葉はフランス語同様、外国語だ。「田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京詞を使うのである。丁度不慣れな外国語を使うように、一語一語考えて見て口に出すのである」(8ページ)。

 むしろ彼にとっては、宣教師としゃべり慣れたフランス語のほうがよほど自然な言葉だ。だから地の文もこうなる。坂井夫人は自分としゃべりながらも、その内容を一々打消しているように感じる。彼女は「ironiquementに打消して全く別様な話をしている。Une persuasion puissante et chaleureuseである」(147ページ)。これはものすごく異様な文章だ。

「皮肉に打消して全く別様な話をしている。強く熱のこもった説得である」というのがその文意だが、生のフランス語がごろりと文に現れてくることに驚いて、内容などどうでもよくなってしまう。なんで鴎外はこんな書き方をしたのか。もちろん、フランス語を学習中の背伸びした読者にかっこいいと思わせる効果もあるだろう。しかしむしろ、純一はフランス語と明治の日本語が混ざったクレオール語で思考しているということを鴎外は示したかったのではないか。

2つの言語で考える主人公

 ジュノ・ディアスやサンドラ・シスネロスなど、アメリカ合衆国の作家でラテン系の出自を持つ人々は、ここ30年ほどの間、英語にスペイン語が頻出する文体を練り上げてきた。ベストセラーとなったディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』やシスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』などはその頂点に位置する作品である。もちろんアメリカで無視されがちなラティーノの文化を示すためのスペイン語と、高級西洋文化を誇示する鴎外のフランス語は社会的な機能は違う。けれども、二言語で考えながら文学を生み出す、という点では共通している。

 漱石の『三四郎』だって、英語で思考しながら書かれたものだとは思うが、彼は鴎外ほど外国語を強調しない。むしろ漢字を駆使して、なんとか日本語と折り合いを付けようとしている。だからこそ漱石の作品は国民文学になれたんだろう。そして鴎外は、そんなものとは関係の無い場所にいることがよくわかる。

 さて、境界を越えるのは言語だけではない。女たちの視線もそうだ。漱石『三四郎』では男性は欲望のこもった視線を若い女性たちに向ける。けれども『青年』では違う。上京したばかりの純一の顔を普段着の女学生が「気に入った心持を隠さずに現したような見方で見て行」(14ページ)く。これは序の口で、劇場では女の粘つくような視線を背後に感じて純一は不快になる。

 もっとも多く視線について語られるのが、鹿のような目をしたお雪さんだ。彼女の微笑みを見ていると、純一は見下されているように感じる。なぜか。故郷にいる若い女性たちとは違って、お雪さんは男性を見ることに躊躇がないからだ。そして彼女の視線に感情をコントロールされることに純一は反発を覚える。

 ついに純一はこうした認識に達する。「お雪さんの遊びに来たことは、これまで何度だか知らないが、純一はいつもこの娘の顔を見るよりは、却ってこの娘に顔を見られていた。それがきょう始て向こうの顔をつくづく見ているのである。/そして純一はこう云うことに気が附いた。お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた」(136ページ)。いつも見る側であるお雪さんを今回純一は見てやった。けれどもそれは彼が思っているように、自分の意思で見ているのではない。純一に欲望を抱いているお雪さんの視線にコントロールされて、むしろ彼女を見させられているのだ。

 ここで事態は、ヘンリー・ジェイムズ的な複雑さに到達する。『デイジー・ミラー』でもなんでも読んでみればいい。デイジーの言動は無邪気さゆえのものなのか。あるいは極度に計算されたものなのか。主人公の青年は思い悩み、デイジーの心の中を見抜こうとし続ける。けれどももし、そんな主人公の心中をデイジーもまた見抜いているとしたら、デイジーは先回りしようとする主人公を常に先回りし、ついに到達点はあり得ない。私を見ているあなたを見ている私を......という合せ鏡が無間地獄を呼び込み、あとは果てしない苦悩があるだけだ。

『青年』に戻ろう。男らしく、見る者の立場を確保しようとすることで、逆に純一は自分を見失ってしまう。かくして彼の男らしさ自体が解体される。彼だけではない。純一の夢の中でおちゃらと坂井夫人とお雪さんは融合し、彼に迫ってくる。ここでも境界線は失われる。あとは、コントロールされまいとすることでかえって女たちにコントロールされる純一の悔しさだけが残る。

揺らぐ境界線

 さらに、男女の境界すら消える。作中の正宗白鳥(大石)は純一に見られて、自分の気持ちが晴れやかになるのを感じる。そして我知らず、純一に良いところを見せようとして、雑誌記者の質問に答えてしまう。友人の木下杢太郎(大村)はもっと露骨だ。彼こそが純一の美しさに最も惹かれている。今まで年上としか交わらなかったはずなのに、気づけば純一の下宿に入りびたりで、「純一の顔を見る度に、なんと云う可哀い目附きをする男だろうと、大村は思う」(203ページ)。そして自分は同性愛者ではないつもりだが、異性愛者にも実はそういった感情が隠れているものだなあ、と考えるのだ。しかも彼は自分のそうした感情を裁かない。

 日本語が揺れ、男性性が揺らぎ、異性愛と同性愛の境界も揺らいでしまう。こう見て行くと、同じ明治時代の古典でも漱石の『三四郎』と鴎外の『青年』は全く違うことが分かる。なんというか、漱石が男っぽいのに対して、鴎外はクィアっぽいのだ。僕にとって最も興味深いのは、両者の視点のあり方である。漱石は自分の弟子である寺田寅彦や小宮豊隆をモデルとして『三四郎』を書いた。だから自分に近い登場人物である広田先生はかなり立派な人で、学生にも慕われている。

 だが鴎外は違う。『青年』に出てくる学生たちは鴎外と比べながら漱石について「しかし教員を罷めただけでも、鴎村(鴎外)なんぞのように、役人をしているのに比べて見ると、余程芸術家らしいのかも知れないね」(48ページ)なんて言い放つ。そして純一は思うのだ。「鴎村の物では、アンデルセンの翻訳だけを見て、こんな詰まらない作を、よくも暇潰しに訳したものだと思ったきり、この人に対して何の興味も持っていない」(48ページ)。純一よ、作者にそこまで言うか。こうした自己を客観的に把握できる力を持った鴎外は、やはり並大抵の人物ではない。

参考文献 森鴎外『青年』岩波文庫、2017年。


1-3.本郷編 大江健三郎「死者の奢り」〜死者たちの声を聞く に続く


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