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東大を舞台にした作品でいちばん有名なのは、夏目漱石の『三四郎』ではないか。熊本の高校を出た三四郎は上京して東大に入学する。そこで、いつも研究室に籠もって難しい科学の実験ばかりしている野々宮先生、軽薄でいろいろとやらかすが、たまにいいことも言うクラスメートの与次郎、与次郎が慕っている広田先生という高校の教師などと出会う。大学の講義は退屈だし、本はなかなか読めないが、けっこう東京の学生生活を満喫する。演劇会あり、同人誌あり、美術展ありで退屈する暇もない。
なかでもひときわ三四郎の心を惹いたのは美禰子だ。登場する女性たちはみんな美人ばかりである。野々宮先生と妹のよし子、美禰子、三四郎と、4人でグループ交際みたいな雰囲気になる。美禰子にとっては、もう大学の先生をしている野々宮先生のほうが魅力的なんだろうな、なんて三四郎は思ったりして。そんなことを考えている時点でかなり惚れているんだけど。
じゃあ三四郎にとって美禰子のどこがいいのかと言えば、あんまり覚束ない。彼女とはそんなに深い話をするわけじゃないし。田舎の女性と違って発言や身のこなしが男に媚びていないと言って三四郎は驚く。要するに彼女は、きれいで、何を考えているのか理解できなくて、都会風だ、というばかりだ。 けれども、三四郎にはそれで十分なんだろう。なにしろ、彼女自身が何を考えているかより、自分が彼女に対して何を感じて、何を考えているのかのほうが三四郎にとってはよほど大事なのだから。だから結局、美禰子が他の人と結婚してしまっても、まあしょうがないか、なんて感じになる。そしてそのうち自分が出世して、魅力的な存在になったらまた別の人に出会うだろう、という話を友達とするのだ。
100年前と変わらない東大カルチャー
『三四郎』を読んで僕はびっくりした。書かれたのが1908年だから、ほぼ1世紀以上前の作品なのに、僕が体験した1990年代と東大カルチャーのあり方がまったく変わっていなかったからだ。東大カルチャーとは何か。まず、圧倒的に男性中心である。もっとも信頼できるのは、同じ階層に生まれて、同じ教育を受けたエリートの同年代男性だ。そこに先輩としての教師たちが登場する。教師ももちろん全員男で、彼らだけが深い相互理解と信頼関係を持てる相手となる。
したがって、エリート教育を受けられない人たちはそこには入れてもらえない。だが唯一例外がある。エリート男性の妹や親戚などの女性たちだ。彼女たちはエリートに準ずる存在として受け入れられる。しかしながら、議論の相手ではもちろんない。むしろ美的な鑑賞や恋愛妄想の対象だ。したがって、彼女たちが個人の意見を持ったり、ましてや自ら欲望を抱いたりすることはまったく望まれていない。
何より高い価値があるのは西洋文化だ。絵画や音楽なども含まれるが、とりわけ西洋の言語で書かれた学問や文学作品が大切である。その場合、難しければ難しいほどかっこいい。だからドイツ哲学や、習得の難しいギリシャ・ローマ語で書かれた古典が最高、ということになる。もっとも、実はきちんとした理解は必要ない。本当は誰もわかってないからね。ちょっとかじった程度でも十分お洒落だ。むしろ、会話に難しい外国語をちりばめ、表紙が分かるように洋書を小脇に抱えて歩き、人が見ている場所で開く、などをすることが大事である。
ああ、書いていて恥ずかしくなってきた。でも本当だからしょうがない。もちろん反論もあるだろう。第二次大戦後は女子学生も増えたし、自ずからカルチャーも変わったのではないか。あるいは、今どき西洋一辺倒なんてあるわけないよ。甘い。いまだ男子校から圧倒的な人数が入学し、もっとも女子の割合が多い学部でも20パーセント半ばしかない大学の雰囲気が、そんなに変わるわけないではないか。西洋文化にしたって、東大生が雪崩を打って韓流に夢中、なんて聞いたことないぞ。
三四郎はどうして失恋するのか
三四郎が美しいと思う相手は二種類だ。西洋人と若い女性たちである。まず西洋人だが、三四郎は汽車に乗っていて西洋人を4、5人見る。「こういう派手な綺麗な西洋人は珍しいばかりではない。頗る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚れていた。これでは威張るのも尤もだとまで考えた」(21ページ)。ここでは、見た目が美しい、思想が優れている、産業や軍事が盛んだ、だから威張っても仕方がない、という観念がない交ぜになっている。
これは今も十分に理解できる思考法だろう。雑誌を見てもテレビを見ても、ハーフ美人はたくさん出てくる。もちろんほぼ全員が白人との混血だ。余談だが、こういうのはアフリカ文学を読んでいてもよくお目にかかる。ナイジェリアの作家アディーチェの作品では、どうしてアフリカではハーフだとかわいいと言われるのに、アメリカでは隠すべきことなのか、と主人公が疑問に思うシーンがあった。ここを読んで、僕はアディーチェにものすごく感情移入してしまった。
本題に戻る。しかしながら、三四郎たちは西洋人を崇拝しているばかりではない。むしろこういう態度は西洋に屈従しているだけだ、という反発心ももちろんある。それが具体的に現れるのが、西洋人教授の代わりに広田先生を、という学生運動だろう。与次郎の仲間たちが盛んに唱えるこの流れに、いつしか三四郎も巻き込まれていく。
もう一つが女性に対する態度だ。三四郎にとって、女性たちは鑑賞の対象である。大学の運動会を見に来ていた彼女たちを見て思う。「その上遠距離だから顔がみんな美しい。その代わり誰が目立って美しいという事もない。ただ総体が総体として美しい」(153ページ)。それでは、彼女たちを常に貴重なものとして三四郎は扱うのか。実はそうでもない。
よし子と話していて反論できなくなると彼は急に取り乱す。「ただ腹の中で、これしきの女のいう事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として不甲斐ない事だと、いたく赤面した」(115ページ)。ここには、いやしくも大学生なら、若い女性の言うことはすべて簡単に論破できるはずだ、という思い込みがある。だから、それが事実として覆されると動揺してしまう。そしてよし子の強さを東京のせいにする。けれども熊本でだって、女性たちは嫌なものは嫌に決まっている。ただ優しさから、論破されたふりをしてくれていただけだ。
美禰子に対してはどうか。女は男に甘えた態度を取るものだ、という思い込みが三四郎にはある。だから一人でスッスッと歩いて行く美禰子に対して、どうしていいかわからない。「その時三四郎はこの女にとても叶わないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた」(129ページ)何を見抜かれたのか。自分の淡い恋心である。
でも三四郎はどうするすこともできない。田舎だったらこうして二人で歩いていると噂になるだろうな、とか思いながら大した会話もできず、美禰子と肩が触れ合う距離で雨宿りする。彼女が画家のモデルをしている家を訪ねて、「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」(247ページ)と三四郎が美禰子に言うシーンは切ないが、それでどうなるものでもない。そもそも、自分の思考や感情にばかり興味がある三四郎に、相互的な恋愛関係を作れるわけもない。
漱石は問いかけ続ける
西洋への崇拝と反発、女性への憧れと軽蔑。これが東大カルチャーの芯にあるものだとしたら、そこにはあまりにも多くのものが抜けている。もっとも中心にあるのは、自己肯定感の欠如だろう。自分たちがやっていることは文化も産業も政治もダメだ、という意識があるから、幻想の西洋を持ち上げたり落としたり、あるいはアジアやアフリカの人々を見下したりする。あるいは、人間としての自信がないからこそ、女性を上げたり下げたりしてしまう。
自己肯定できない者は、相手も認めることができない。彼らの頭の中に存在している西洋人は、優れた学問や外見を持った、人間とは似て非なる人々である。言い換えれば、幻想の中の存在でしかない。しかしながら、実際はみんな、日々の苦しみがあり、それぞれの欠点を抱えながら、毎日地味に地道に暮しているだけだ。どうして彼らの強さばかり見て、彼らの弱さから目をそらすのか。そして、自らの弱さも見詰めながら、弱さの中で繋がっていこうとしないのか。
女性に対する態度も同じだ。彼女たちを美しいものと崇めたかと思えば、知的に劣った存在として軽蔑もする。そこには、同じ人間として、彼女たちの弱さや悲しみ、それでも続けている努力に共感し、ともに生きるという感覚がみじんもない。三四郎たちにとって女性とは、たまにドキッとすることも口にする、美しい生きた人形でしかない。
ならばどうすればいいのか。自己の感覚に閉じこもり、周囲に勝手な幻想を投げつけ、劣等感や優越感のあまりちゃんと人と関われず、あるいは人を傷つける、という地獄からどう出ればよいのか。少なくとも、漱石の作品の中にその答えはない、と僕は思う。だって、せっかくイギリスに行ってもほとんど人とかかわらず、下宿で勉強ばかりしていた人だからね。晩年に書かれた『道草』を読んでも、主人公の妻に対する態度に、三四郎からの大きな隔たりは感じられない。ただ妻は自分の思い通りにならない、という事実を突きつけられて暴れているだけだ。
もちろん小説を書くことは問題と向き合うことである。ただしそれがそのまま解決にはならない。むしろ、作品を通して問題のありかを明瞭かつ正確に示した、というのが漱石の偉大さなのだろう。東大カルチャーはそう簡単には終わらない。なぜならそれは、日本の近代の中心にある問題に深く根差しているからだ。谷崎潤一郎などと比べると、漱石の小説はそんなに上手くないと思う。けれども、彼の作品は10年も20年も読者の心に残る力を持っている。そして問いかけ続けてくる。お前もまた、そういう存在なのではないか、と。だからこそ漱石の作品は貴重なのだ。
参考文献 :夏目漱石『三四郎』岩波文庫、1990年。