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本郷とはあんまり相性が良くない。出会いからそうだった。高校3年生の終わりに東京大学を受けて、合格発表が本郷キャンパスであった。昭和の最後あたりの当時は牧歌的で、ウェブ発表なんてなかったから、結果を知るには自分でわざわざ行かなければならなかったのだ。
丸ノ内線の本郷三丁目駅で降りたときは、とても正気ではなかった。目がグルグル回って、ものすごく空気の抵抗が強くなって、すっと前に進めなかった。それでもどうにか自分を鼓舞して、本郷キャンパスに向かって進んだ。
でもね、不思議なことに、いくら歩いてもキャンパスがないんですよ。もう少しもう少しと唱えながら、結局遠くまで来てしまった。あとで分かったんだけど、本郷三丁目の交差点で方向を90度間違えて西に向かっていたんですよね。本当は北に行かなきゃいけなかったのに。つまりは精一杯がんばって目的地から遠ざかっていたわけ。
入学後も、本郷とは長いこと縁がなかった。そもそも雰囲気が苦手だ。僕が脳内で思い描くベルリン(行ったことない)みたいで、赤レンガの教室や図書館は重厚そのもの。知的権威の象徴、みたいな感じがする。僕は当時すでに文学が好きで、ロックが好きで、だからそういうのは嫌だなー、と思っていた。もちろん今になれば、明治時代に貧乏だった日本が外国からナメられないように一生懸命作ったキャンパスだということはわかる。でもやっぱり重いんだよね。
その点、教養学部がある駒場キャンパスは良かった。当時の校舎はどれも古い病院みたいでガタガタだった。時計台だけが権威っぽかったけど、とにかくトイレが臭かったし。あとは、戦後のドサクサで勝手に住み着いた住人が、キャンパスの縁に家を建てている、というのもいい。だから、二年生が終わって専門に上がるときも、本郷の学部には行かなかった。駒場には教養の先生がやっている専門課程があるのだ。大学院も続けてそこに行った。
縁がないものと思っていた本郷キャンパスに通うようになったのは、せっかくアメリカ研究の大学院に入ってすぐ、指導教官の柴田元幸先生が本郷の英文科に移ると決まったからだ。初めて行った英文科の部屋で目に留まったのは二枚の写真だ。ほら、祖父母の田舎の家に行くと、先祖の写真が大きく飾ってあったりするじゃないですか。ああいう感じで、初代教授ラフカディオ・ハーンと二代目教授の夏目漱石の肖像写真がドーンと壁に掛かっていた。そのときは二人のことをちょっと嫌いになったりした。
でも、結局本郷の授業や勉強会に通ったのはものすごく勉強になったんだよね。はっきりと今の自分を作っていると言っていい。本郷三丁目で降りて、迷わず真っ直ぐ歩いて行くとやがて赤門がある。そこを通って重厚な図書館の前を通ると、少し変な形の英文科のビルがあった。余談だけど、そのすぐ裏は三四郎池で、ものすごく暗い沼みたい感じで、シャレで一度行ってみたんだけど、もうそれからは行ってない。
いちばん印象に残っているのは、柴田先生を中心に自主的にやっていた翻訳の勉強会だ。課題の文章が決まっていて、それをみんなで訳してくる。そしてどうやったらもっといい訳になるのか、解釈から訳語の選び方、句読点の位置まで細かく検討するのだ。真剣に考えてさえいれば、誰でもどんな意見でも言ってよい、というのがよかった。
そのときは気づいていなかったけど、そういう平等さこそ大学の良いところだと思う。実社会に出れば、どんな場所でも上下関係はついて回る。男性だったり社会的地位が高かったりする人のほうが、発言権が強いことも多い。でもその読書会では、性別や実績にかかわらず発言権は平等で、良いアイディアはどんなものでも取り上げてもらえた。
でも最後には圧倒的な実力で柴田先生の意見が通ることも多かった。本気で意見を出し合った結果だから、学生の側にも尊敬しかない。その読書会に出ていたのは、学生でもなんでもない岸本佐知子さん、今はいろいろ翻訳をしている畔柳和代さん、小山太一さんなどなどだ。みんなプロとして通用しているのは、互いに刺激を与え合い、さらに柴田先生に引っ張ってもらえたからだと思う。
やがて僕は早稲田で教えるようになった。そして柴田先生は英文科を辞めてしまい、現代文芸論というアナーキーな学科を自分で作って移籍した。僕も頼まれて本郷キャンパスで、半年だけアメリカ文学を教えたことがある。学生たちは驚くほど良い子ばっかりで、意見もよく出るし、作品をちゃんと読んでくるし、とっても教えやすかった。しかしながら、謎の苦労もあった。古い教室の音響が悪くて、大きい部屋じゃないのに僕の声が学生にはなかなか届かないのだ。音を吸う教室設計ってなんだよ。あーあ、本郷とは相性が悪いのかな。
1-1.本郷編 夏目漱石『三四郎』〜漱石は僕のクラスメート に続く