ⒸPiyocchi
さよならベッキー
2019年3月、アメリカで大規模な裏口入学スキャンダルがあったことをご記憶だろうか。イェール大学やスタンフォード大学といった名門校をターゲットにした悪徳コンサルタントが、大学が用意するスポーツ推薦枠を悪用して、セレブの子どもたちを大量に裏口入学させていたという事件だ。
マスコミはこの事件を「バーシティ・ブルース・スキャンダル」と名付けたが、それは捜査にあたったFBIの作戦名に由来する。数年にわたり関係者たちの電話を傍受してきた彼らは、とある青春映画のタイトルを借りて、自分たちの秘密捜査を「オペレーション・バーシティ・ブルース」というコードネームで呼んでいたのだ。
訴追され禁固刑を受けたセレブの中には、懐かしのコメディドラマ『フルハウス』(1987-95)で人気を博した女優のロリ・ロックリンも含まれており、事件に対する世間の関心はいやが上にも高まった。奇しくも2019年は、『フルハウス』のスピンオフ作品『フラーハウス』(2016-2020、ネットフリックスで配信中)のファイナル・シーズンの年でもあり、ロックリンの降板はもちろんのこと、彼女の演じるベッキーもまた「母親を助けるためにネブラスカに帰った」ことにされてしまったのだった。(※1)
とはいえ、それほどまでに世間を騒がした事件であっても、人々の関心はあっという間に遠のいてしまう。ロックリンにしても、2か月の禁固刑を終えたあとは女優業を再開し、プライム・ビデオで公開中のドラマ『オンコール』(2025)では、ベテランの警部補役を演じている。
だが、この事件そのものを、アメリカのセレブたちのスキャンダルとして片付けてしまうのはあまりに惜しい。なぜなら、この事件を生み出したのは、他でもないアメリカの大学入試システムそのものであり、さらには、アメリカにおける「大学」という存在そのものが抱える「歪み」であったからだ。
現代アメリカの「受験戦争」
2021年に公開されたネットフリックスのオリジナル・ドキュメンタリー映画『バーシティ・ブルース作戦──裏口入学スキャンダル』は、まさしく今の私たちに打ってつけの教材だ。エンターテイメント作品としても鑑賞に耐えうる本作を見れば、実際に賄賂を受けとっていたスタンフォード大学セーリング部コーチへのインタビューや、開示されたFBIの盗聴記録をもとに作り込まれた再現ドラマによって、日本のメディアを介してではよく分からなかった事件の詳細がクリアになってくる。
首謀者リック・シンガーの電話 私が直接かけあえる大学というのはいくつもあるが、先着順で案内しているから、まずはどこに行きたいのか選んでくれ。
顧客の男性 ハーバードだとかプリンストンだとかジョージタウンだとか、そういった大学を選んだらどうなる?
シンガー 私の「サイドドア(勝手口、通用口)」を使ってハーバード大学に入れたいのであれば、120万ドルになる。
顧客 なんてこった。
シンガー だが、いわゆる「バックドア(超高額な寄付行為を大学に行い、受験生の親の存在をアピールすること)」を使うとなったら、大学側は4500万ドルを要求するはずだ。スタンフォードなら5000万ドルさ。やつらはそんな額を受け取ってる。おかしいだろ。(......)私は今年、「サイドドア」を使って730人以上を合格させたんだ。(※2)
シンガーの生々しいセリフを聞きながら、きっと多くの人が思うのは、彼の言う「サイドドア」が違法なら、大学への寄付行為を利用した「バックドア」もまた、文字通りの「裏口入学」として処罰の対象になるのではないか、ということだろう。
本作に登場するピュリッツァー賞ジャーナリストのダニエル・ゴールデンは、この点について以下のように解説する。
たいていの人は、「マイノリティが優遇されるアファーマティブ・アクションを除けば、大学入試は実力勝負だろう」と思っています。しかし、私にしてみれば、入試制度というのはじつにさまざまな優遇制度の寄せ集めです。もちろん、まったくの実力で合格を勝ち取る受験生もいますが、富裕層と白人層に偏った優遇制度の利用者もたくさんいます。セーリングやフェンシングや乗馬といった競技人口の少ないスポーツの選手を対象とする推薦もまた、そうした優遇制度の一つです。なにしろ、たいていの子どもはやってみることすら叶わないスポーツなのですから。そうしたスポーツをやらせることのできる家庭は、多額の寄付金が用意できます。そうして資金調達課の目を引くことができれば、当該の受験生は、入学者選考に推薦してもらえるというわけです。(※3)
かくして、スーパーリッチな人々は、金の力で輝かしい学歴までも子どもに買い与えることができるというわけだが、シンガーは優遇制度の裏方となるコーチや職員に取り入ることで、何千万ドルという寄付金を、平均して数十万ドルという額にまで大幅にディスカウントしてみせたのである。
では、こうしたアメリカの入学スキャンダルの取材を通じて、本作『バーシティ・ブルース作戦』が視聴者に訴えたいこととは何か。ひとつは、寄付金に依存したアメリカの大学が抱える教育機関としての脆弱性であり、もうひとつは、そうした脆弱性につけ込まざるを得ないほどに受験生とその家族を追い詰めてしまった、現代アメリカの「受験戦争」の実態である。
ひとくちに「大学」とはいうものの......
「アメリカの大学は、入るのは簡単だけれど出るのは難しい」とは、今でもたびたび耳にするフレーズだ。だが、この数十年間で日本の入試環境も変化してきたように、アメリカの入試もまた、決して「入るのは簡単だけれど」というわけにはいかなくなってきたようだ。
『バーシティ・ブルース作戦』に登場する入試対策の専門家アキル・ベローは、近年、一部の大学に志願者が殺到するようになった原因のひとつとして、1980年代に始まったアメリカ国内の大学番付の影響を挙げる。
この国の「トップ」は、アイビーリーグの研究機関であるとよく言われます。ですが、その違いというのはまったくと言っていいほど、そこに属している研究者とは関係がありません。80年代に、『U.S.ニュース』が大学にランク付をするということを始めましたが、そこで基準とされたのは「評判(プレステージ)」、ただそれだけだったのです。(※4)
前述のジャーナリスト、ダニエル・ゴールデンも、こうした意見には大筋で賛成のようだ。
大学入試が厳しさを増しているのは、人口増加だけが原因ではありません。大学の自作自演でもあるのです。つまり、データー上で競争が加熱しているように見えれば、それだけ大学の順位も高くなるというわけです。(※5)
そもそも、アメリカの「大学」とひとくちに言っても、その種類はさまざまだ。現在、アメリカにはおよそ4500校以上の「大学」があるとされるが、ハーバード大学教授デレック・ボックの著書『アメリカの高等教育』(改訂版、2015)によると、その内訳は以下のとおりになる。
リサーチ・ユニバーシティ(研究大学)
......約200校
コンプリヘンシブ・ユニバーシティ(総合大学)
......700校以上
4年制カレッジ
......約1000校
コミュニティ・カレッジ(2年制)
......1000校以上
営利目的インスティテュート
......1300校以上(※6)
このように、翻訳では一括で「大学」とされてしまうところを、原文での区分をそのままカタカナに置き換えてみると、4500という数字のすべてが日本の「大学」に匹敵するわけではないことが明らかになってくる。
まず、「ユニバーシティ」に分類されている「大学」およそ900校には、学部と大学院の両方が設置され、教育と研究のそれぞれに力が注がれている。日本の場合と比較すると、全国812校のうち大学院を設置している機関は662校であるから(国立大学の院設置率は100%)、 (※7)総人口に比しても、日米の「ユニバーシティ」数には、じつは大きな差がないことが分かるだろう。
もちろん、大学院を持たないアメリカの「4年制カレッジ」であっても、アーマスト・カレッジやウィリアムズ・カレッジといった名門校は存在する。ただし、ボック曰く、これらの名門カレッジはあくまでも「幸運な数校」に過ぎず、ほとんどの4年制カレッジは、ユニバーシティに比して学生数も少なく、「安い授業料を課せる州立大学と学生の獲得を競」うことを余儀なくされている。 (※8)
結局、日本でいうところの「4年制の大学」に相当するアメリカの「大学」の数は1000〜2000校であり、そのうち10%の学校だけが、定員を大きく上回る数の受験者を集めることができるという。 (※9)前述のベローは言う、「大学に行きたいと思えば、たいていは行けるんです。問題は、あまりに多くの受験生が同じ大学に殺到してしまうことなんです」と。(※10)
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本稿に引用されているネットフリックスからの引用は、配信されている日本語・英語字幕を参考にして、引用者が翻訳したものである。
(※1)コメディドラマ『フラーハウス』、ネットフリックス、シーズン5、エピソード15、2020.
(※2)ドキュメンタリー『バーシティ・ブルース作戦──裏口入学スキャンダル』ネットフリックス、2021.
(※3)同上.
(※4)同上.
(※5)同上.
(※6)Bok, Drek. Higher Education in America: Revised Edition. Princeton UP, 2015, Kindle. 邦訳版『アメリカの高等教育』(宮田由紀夫訳、玉川大学出版部、2015)を参照し、同書による「大学」の表記を原著にあわせてカタカナに戻した。
(※7)https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/ichiran/mext_00026.html
(※8)ボック『アメリカの高等教育』、25頁.
(※9)ボック、30頁.
(※10)『バーシティ・ブルース作戦』.