ⒸPiyocchi
「ポストモダン」がカッコよかった頃
大学なんて、しょせん金持ちの子どもたちが時間を潰す場所に過ぎない──。1980年代のアメリカ小説には、確かにそんな記述が散見された。ニュー・ロストジェネレーションを代表するブレット・イーストン・エリスの青春小説『レス・ザン・ゼロ』(1985、映画版は1987年公開)や、ポストモダン文学を代表するドン・デリーロの『ホワイトノイズ』(1985)は、そうした見せかけだけの「大学」が、そのまま「アメリカ」の現実を映し出しているかのようなナラティブを創出して世の中に受け入れられたのだ。
小説『ホワイトノイズ』の書き出しはこうだ。
何台ものステーションワゴンが正午に着いた。輝く長い列をなして、西キャンパスを進んでいた。〔......〕
私は二十一年のあいだ、九月になるとこうした壮観を見てきた。いつ見ても印象的な光景だ。学生たちはおかしな叫び声を上げながら、酔って倒れるような身ぶりで互いにあいさつする。毎度のことだが、学生たちの夏は犯罪的な楽しみでいっぱいだ。車の横で、父母たちは太陽に目をくらませて立ちつくし、あらゆる方向に自分たちの似姿を見つけ合う。〔......〕彼らは親であることによく慣れている。彼らの様子を見ていると、とても広い範囲をカバーする保険に守られているとわかる。この一年でするだろう何にも負けず劣らず、そして、教会の儀式ばった礼拝や法律などよりもよほど、このステーションワゴンの集結によって、彼らは自分たちが同じような考え方の精神的な同族だ、国民であり部族なのだ、と気づくのである。(※1)
物質的に満たされていることを、精神的にも満たされていると勘違いする親子たち。そんな顧客を相手に、語り手の「私」はヒトラー研究の権威として「死とは何か」という古くて新しい問題を芝居っ気たっぷりに講義する。
1970年代から1990年代まで──すなわち、ニクソンからクリントンに至るまでの30年間は、文学の世界を中心に、物事の真偽や軽重を転倒させ、そして空疎なものにこそ価値を見出すといった「ポストモダン」な感覚が支持された。たとえばそれは、1980年代にメディアが行った大学のランク付を世間一般がすんなりと受け入れてしまったように、根拠のない「評判」が実質的な経済を動かすといった高度資本主義社会のおぞましさに対して、多くの人が驚くことをやめ、むしろ積極的に受け入れようとしたことが原因なのかもしれない。
このクラスにスマートフォンはありますか
だが、1990年代も半ばにさしかかると、ポストモダンな感覚は少しずつX世代的なものへと変化していった。歴史家のブルース・シュルマンもいうように、X世代は「皮肉(アイロニー)」を前景化し、「現実の経験から距離を置くために、すべてのことに真剣にならないし、なれないで、常にアイロニーの鎧を身にまと」うようになったのだ。(※2)
では、そんなX世代のひとりであるノア・バームバック(1969年生まれ)が、1980年代ポストモダン文学の傑作『ホワイトノイズ』を映画化したら、いったいどうなるのだろう。文学ファンにとっても、映画ファンにとっても、ゾクゾクするようなコラボレーションが、2022年、ネットフリックスで実現した。
タイトルは原作のままの『ホワイト・ノイズ』(2022)。主演は『スター・ウォーズ』の新シリーズでカイロ・レンを演じたアダム・ドライバー。映画は、原作を正確にトレースするかのように、なつかしい型のステーションワゴンの列を映し、騒々しくものんびりとした地方大学の新学期を再現する。そして間髪をあけずに画面上に大書されるのは、「1. WAVES AND RADIATION(第一部 波動と放射)」という原作通りの小タイトル。そこから感じとれるのは、どうやらこのアダプテーション作品は、80年代の世界観になんら手を加えることなく物語を進めるつもりであるらしいという監督の気概であり、かつまた、そうした手法は、上手くいけば最大級のアイロニーを生み出すことができるかもしれないけれど、下手をすれば当事者以外にはなんら面白味のないノスタルジーの産物となってしまう......といった嫌な予感だ。
はたして、本作がどちらに転んだかは、ぜひともご自身の目で確かめていただきたいところだが、私はあえて本作を、X世代が作り出した80年代ノスタルジーの傑作として楽しむことに決めた。とりわけ興味深かったのは、ヒトラー研究者がヒトラーさながらの演説をぶつ、といういかにもポストモダン文学らしいブラックな笑いどころが、驚くほど牧歌的な空気に包まれていたことだ。
もちろんそれは、バームバック監督の演出のせいではない。むしろ、グラッドニー教授を演じるアダム・ドライバーの演技は素晴らしかったし、かつて自分が学部生だった頃に必死に読んだ『ホワイトノイズ』はきっとこんな風景をスケッチしたかったのだなと、胸を熱くしたくらいだ。だが、完璧に再現された1980年代の講義は、2020年代に生きる私たちにとって、あきらかに過去のものだった。文字だけの小説であれば、確かに「デリーロの先見性」(※3)に打ちのめされるようなシーンであったのに、映像化されたとたんにそれは、寓意性の欠片もない「茶番」のようなものになってしまったのだ。
トランス状態のようになりながら熱弁を振い、あまつさえナチス式の行進をしてみせる大学教授の姿に、はたしてここは笑うところか否か、私がひたすら困惑してしまったのは、端的に、その教室にスマートフォンがなかったからだ。
大学教授というお手軽な風刺
試みに、2010年代のカレッジを舞台にしたネットフリックスのオリジナルドラマ『ザ・チェア〜私は学科長〜』(2021)を、映画『ホワイト・ノイズ』の比較対象としてみよう。
ドラマの学科長は、コリア系アメリカ人の中年女性ジユン・キム。当大学英文学科の初の女性学科長にして、初のアジア系学科長という名誉あるポジションについたとされる彼女だが、本作の主眼はそこにはない。いや、確かに彼女の存在は、現実社会の政治的な議論を反映させたものに違いはないのだが、ドラマが注力するのはそうしたことへの目配せよりも、むしろそうした議論を頭で理解しながらも、押し寄せる現実的な事務作業に忙殺されることなく、この一回限りの人生を幸せに生き抜こうとする、大学関係者ひとりひとりの、あまりに地味で平凡な努力の描写の方なのだ。
そんな彼らのなかで、ひときわ苦渋を舐めているのが、ジユンの恋人にして同じ学科の教授でもあるビルだ。アル中に苦しみ、時間どおりに教室に入ることもままならない彼は、あろうことか「死とモダニズム」と題された講義の途中に、教室でナチ式の敬礼をしてしまう。学生たちは驚くが、それはビルのパフォーマンスがショッキングだったからではなく、誰の手にもスマホがある時代に「ショッキングなパフォーマンス」を実演してしまうことの危険性を、この教授が微塵も理解していないからだ。
案にたがわず、彼の瞬間的な敬礼は学生のスマートフォンによって撮影され、そして切り取り動画として拡散する。しかも、チープな加工によって、彼の頭にはナチスの帽子が揺れているといった有り様だ。
「小規模の4年制カレッジからアイビー・リーグ、そして大規模なパブリック・ユニバーシティまで、東海岸でも西海岸でも、はたまた南部でも西部でも教壇に立ってきた」という批評家のアダム・ブラッドリーは、ドラマ『ザ・チェア』を初めて見た時の衝撃を、「そこには私自身の経験がそのまま描き出されていた」と綴っている。「きっと今の私は、ドラマの中の彼らなのだ──ヒーローじゃなくて、お手軽な風刺の対象なのである」。(※4)そんなブラッドリーは、上述した「ショッキングなパフォーマンス」のシーンについて、どのような感想を持ったのか。『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿された彼の文章を読んでみよう。
はたして、これのどこがまずかったのだろうか? ドラマからは、いろいろと風刺に満ちた考察を引き出すことができる。時代遅れのビルは、みずからの責任について深く考えることもなしに、彼の持つ自由を行使してしまった。学生は学生で、ビルのジェスチャーの文脈をわざと無視したのだが、それはもちろん彼らが文脈を理解できなかったからではなく、教授の持つ特権というものが腹立たしかったからだ。〔......〕ドラマ『ザ・チェア』のなかのキャンパスにおいて、すなわち、アメリカ中のキャンパスにおいて、風刺というのはきっと死んでしまったのだろう。(※5)
矛盾に満ちた世の中を、風刺を交えながら解釈し、そして真理を導いていく。かつて大学の授業に期待されていた役割は、もはや学生の怒りしか買わない。そして、風刺の死んだキャンパスでは、「大学教授」という形骸化した権威の象徴だけが「お手軽な風刺の対象」となって物笑いのタネとなる──。こうしたブラッドリーの絶望をもって、あらためて映画『ホワイト・ノイズ』を見直すならば、そこには「大学」というユートピアの中でみずからの「自由」と「特権」を行使していた、X世代以前のグラッドニーら「教授」たちの余裕が、いっさいの風刺もなしに描かれていることに気づくだろう。
ダッシュの向こうに見えるもの
原作小説『ホワイトノイズ』の共訳者である都甲幸治も指摘するとおり、「この作品で最も印象的」なセリフは、迫り来る災害の恐怖を払いのけるべくグラッドニーが口にした「私は大学教授だ。テレビのなかの洪水の映像で、自宅の前の道路に浮かべたボートを漕いでいる大学教授なんて見たことがあるか?」という暴言だ。(※6)
妄言と言ってもいいであろうこのセリフが、今でも風刺的に響くのは、それがあくまでも一人称小説という構造の中に位置付けられているからに他ならない。すなわち、「私」と自称するグラッドニーが語り伝える物語を読んでいる......といった本作の語りの構造上、読者である私たちは、グラッドニーが好き勝手なことを語る「特権」といったものを、すでにして無条件に受け入れてしまっているのである。
同じシーンは、バームバックの映画版でもきちんと再現されている。だが、肝心のグラッドニーは、もはやそうした「特権」めいたことを口にする文学的主人公としての「特権」すら持っていないように見えてしまうから哀しい。
「非常事態ってのは災害警戒区域に住んでいる人間にしか起きないんだ。残念ながら、社会ってのはそういうふうにできている。貧しくて教育を受けていない人間が、自然災害であれ人為的災害であれ、その被害者になるんだよ」と、映画の中のグラッドニーは妻をさとすのだが、原作小説の持つ「一人称」の特権すら持たない彼は、ただ過ぎ去りし日の大学教授のイメージをノスタルジックに複製しただけの、空疎な(けれどもポストモダンですらない)残像のごときものになってしまっているのである。(※7)
インターネットもスマートフォンもなかった1980年代のキャンパスから遠く離れて、私たちは今、SNSという新時代の「一人称小説」の中に生きながら、目の前で熱弁を振るおうとする他者の「特権」を剥奪しようと躍起になっている。そしてまた、これまでも拝金主義と階級の再生産に汲々としてきたアメリカの大学は、裏口入学スキャンダルやポピュリズムに突き動かされた政権との戦いを経て、いよいよ進むべき道を見失いかけているのかもしれない。
だが、時代はきっと、自分たちに相応しい教授像と大学像を待っているし、そのヒントもまた、私たちはネットフリックスの映画とドラマとドキュメンタリーに見つけ出すことができるはずだ。たとえば、『ザ・チェア』の最後、ジユン・キム教授は、少人数の演習クラスで、19世紀の詩人エミリー・ディキンスンのこんな詩を学生たちに読んで聞かせる。
希望とは、羽を持つもの ―
それは魂にちょこんととまり ―
歌詞のない調べを口ずさむ ―
いつまでも ― いつまでも ―
〔......〕
私はそれを凍てつく土地で聴いたのだ ―
そしてまたどことも知れぬ洋上でも ―
だのに ― それは決して ― 苦しみのうちにあろうとも、
パン屑ひとつねだらなかった ― 私から(※8)
この詩の解釈をめぐって、学生のひとりがジユンに問う、「なんで彼女はこんなにダッシュを使ったんですか?」と。ジユンは答える、「言葉と言葉のあいだに、彼女が言わないでいたこと、あるいは、はっきりと表現できなかったことがあったのでしょうね。これらのダッシュや空白について、学者たちはすでに百年近く議論をしてきました。でもね......みなさんはどう思うかしら?」
映画『ホワイト・ノイズ』とドラマ『ザ・チェア』は、いずれも入念なリサーチと丁寧な演出によって、アメリカの「大学」の過去と現在を描き出してみせたが、すでに検証してきたように、両者のあいだには大いなる断絶があった。簡単に言ってしまえばそれは、「権威」を「権威」のままに風刺できたポストモダンの時代と、もはや形骸化した「権威」に対して、たとえチープな切り取り動画を作ってでも個人攻撃を仕掛けようとする「今」という時代の断絶なのである。
シンガーの工作した「サイドドア」が、「レガシー」や「バックドア」といったアメリカの悪しき伝統と似て非なるものであったように、ジユンやビルのような現代の英文学科教授は、『ホワイトノイズ』でヒトラー研究を教えていたグラッドニー教授とは似て非なるものだ。あの時代の「大学」とこの時代の「大学」、あの時代の「教授」とこの時代の「教授」、それらのあいだに引かれたささやかな「ダッシュ」の向こうに目をこらすとき、私たちはそこに、来るべき未来の大学像と教授像を、おぼろげながらも見ることができるかもしれない。
(Ch.4終わり)
───────────────────
本稿に引用されているネットフリックスからの引用は、配信されている日本語・英語字幕を参考にして、引用者が翻訳したものである。
(※1)ドン・デリーロ『ホワイトノイズ』都甲幸治・日吉信貴訳、水声社、2022、pp. 15-16.
(※2)丸山俊一、NHK「世界サブカルチャー史」制作班編『世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ70=90S「超大国」の憂鬱』祥伝社、2022、Kindle.
(※3)都甲幸治「訳者解説」『ホワイトノイズ』、p.330.
(※4)https://www.nytimes.com/2022/05/13/t-magazine/campus-satire-the-chair.html
(※5)同上.
(※6)都甲、p.330.
(※7)映画『ホワイト・ノイズ』、ネットフリックス、2022.
(※8)https://www.poetryfoundation.org/poems/42889/hope-is-the-thing-with-feathers-314より、ドラマで読み上げられている箇所を、引用者が訳出した.