たとえば友達でも知り合いでも恋人でもない人の心の奥の方の出来事、その人にとってはとても大切な人生の断片を、誰かが切り取って見せてくれたとしたら。そのドラマティックな一瞬を、手渡されたとしたら。私たちはその人自身をよく知らなくても、その一瞬の鮮烈さにときめき、心から愛せるのかもしれない。大切な人でなくても、「誰か」の人生の断片が、大切にきらめいて見えることってある。いや、もしかしたら大切な人ではないからこそ、より一層きらめいて見えることもあるのかもしれない。
物語を人がどうして愛するのかって、そこに登場する人間が自分でも近しい人でもないからこそ、その出来事をどこまでも無防備な繊細な心で受け止められるからだって私は思っている。
人生に最悪な一瞬ってある。そして人は、「私の出来事」にはどうしても鈍感になる。生きる上で、自分に起きることに対してどんどん鈍くなっていく、それは仕方がないことで、「こんな出来事が私の人生に起こるなんて、映画みたい!」と悲劇が身の上に起きた時、思える人はそういない。でも、私は思うのだけど、「他人のことだから」それをドラマみたいだね、映画みたいだね、って言えるのは別に悪いことではない。他人事だからそんなことが言える、のではなく、自分のことだと人はすぐ鈍くなってしまうというだけ。人生は先が見えなくてはちゃめちゃで、それなのになにもかもが命を懸けてこなさなければいけないもの。ドラマティックなもの。私たちがどれくらい、わけのわからない暴走車に乗せられているのか、いつも考えないようにして生きている。でも、考えないようにしているだけで暴走はずっと続いている。その暴走を美しく切り抜いてくれる物語に、ときめいて、「映画みたい!」「小説みたい!」という気持ちを心のどこかに忘れずに取って置けるだけで、ずっと鈍感にいて、やりこなしている人生の、とある夜に、不意に自分のために泣くことができるかもしれない。
人生の、この、鈍くないとこなせなくなるくらい、しんどくて常に重い選択。それをどこかではロマンチックなことだと思っていなきゃやってらんないよって私は思います。そんな心のために物語はあるの、そんな心のために、吉澤嘉代子さんの歌はあるのよ。
神様がいたならきっと嫌われていたでしょう。
窓のそとを見遣ると、豊かな麦畑の黄金がそれはそれは美しい中、
運転手が言ったのです。
「お客さま」
「はい」
「貴女」
「はい」
「貴女、もう地獄に落ちてますよ」
「え」
地獄タクシー タクシー 魂をたくし
地獄タクシー タクシー 釜の底をゆこう
※
地獄タクシーは、夫を殺して逃げる女性の歌だ。それこそ歌の「私」だったなら、こんな曲のような、アップテンポの気持ちにはなれないような状況だろう。私はこの歌が大好きで、それはこの物語性にときめく第三者の心そのものに、すごくまっすぐに応えているから。吉澤さんの歌には物語を感じることが多くあるけれど、その物語を愛する「誰か」のために歌が常にあり、フィクションであるけれど、現実に根づいたフィクションであり続けるから。フィクションを求める私、のための歌であり続けるからだ。
物語はこの世の中に無数にあって、それらに囲まれて、それらに「他人」だからできる共感やときめきや同情を繰り返して、自分の人生にはできない「人生のドラマ性への大はしゃぎ」を繰り返して、生きている。どうか、自分の人生にも、適当になりたい、ドラマティックだねって、苦しかったり悲しかったり追い詰められている時に思えるようになりたい、それくらい強くなりたいと思いながら、たぶんそれは一生叶わないわけだが、朝の、人がほとんどいない都内の大通りを歩いている時とかに、もしかしたらこの一瞬を、私は何十年も先に、私の人生を思い出す時の一場面にするかもしれない、なんて思う。私という映画があるならここは短い一瞬の場面として入るかもしれない、なんて。
たまに、不意に、自分の人生そのものを怖がりながらそれでもその激しさや危うさを素直に愛している自分が、顔を出す。そういうときの、人生のあやふやさに勝って、人生を愛せている一瞬の自分を作っているのは、こういう歌や、無数の物語、それからそれらを愛してきた過去の私なんだ。
※吉澤嘉代子「地獄タクシー」