12.他人と他人の恋と、わたし(柴田聡子「後悔」について)

 歌ってくれる人というのは、それだけで心を開いてくれているような予感がする。それが本当かどうかなんていいんだ、歌声は話し声よりも「呼吸」に近いように思うし、とても心や体に近いと思う。その人の「その人だけのもの」を、その人が許してくれるから、少しだけ私も聞くことができているような、そんな、友達になるとか恋をするとかとは全く違う、「親しくなる」ことのかけらのようなものが歌を聞く時間、きっと、降りてきている。

 そんなふうに感じる歌として一番最初にイメージするのは、柴田聡子さんの歌。

ああ、きた、あの曲がきた
ねえ、いま、きみも気づいた?
目深の帽子の奥の
まぶたに光が跳ね返る

 柴田さんの歌は「わたし」も「きみ」も、私じゃないってわかる。こんなに、「ねえ、いま、きみも気づいた?」って密閉したイヤホンの中で聞こえているのに、とても遠い人の、親しい人との会話が歌になっていると、感じる。でもそれでいい、むしろ、私が完全に外野だってわかる歌だから、私はこの歌い出しが好きだ。歌は、歌う人の心の日常で鳴り響いているものであって欲しい日があって、そんな日にこういう歌を聴いているとすごく嬉しくなるなぁ。私の気持ちや、第三者の誰かの気持ちのために生まれてはいない歌。でもそこで、「生きている」という共通点だけが沖合の光みたいにキラキラ見えて、歌詞になってないのに、金木犀のにおいがする!って喜んでるところとか、コンビニで深夜に餅入りのアイスを買うところとか、なぜか想像してしまう。私はあんまり友達がいなくて、それはたまに暗闇の中で心臓がばくばくしちゃうようなことなんだけど、でも地上にたくさんの人がいて、ある程度その人たちが過ごしている日常の断片が想像できるってすごいし、救いだってよく思う。その人たちの日常の大事な部分は多分少しも想像もできないし、わかる必要なんてないけれど、今のスタバのフラペチーノは何の味かとか、月見バーガーはまだやってるのかとか、今、月がめちゃめちゃ大きく見えるんだよやばい!とかそういうこと、そういう会話をしてそうな「誰か」の気配を感じられること。風が秋っぽくなって、急激に澄んでいく星空とか、そのことを誰かも今考えているかも、とか。そういうこと。
 私たちは似たような「背景」の中に住んでいる。それに気づくぐらいじゃ、孤独を埋めることはできないかもしれないが、孤独の中でも、まだ生きていくし、生活はあって、雑多でむやみやたらにカラフルで、その中で踊るように喜怒哀楽を泳ぐためにこれはとても大切なきっかけやひらめきになるんだと私は思っている。
 だから、この人の歌を聴くのが好きなんだ。

ああ、バッティングセンターで
スウィング見て以来
実は抱きしめたくなってた
ああ、ほほえみ合うだけで
何もかも忘れてただたのしいね

 そして、きっとだれもが、そんなカラフルな日常の向こう側に、見えない「大事なもの」を抱えていて、柴田さんの歌を聴いていると、そのことをいつまでも忘れずにいられる。柴田さんの歌は、遠くの誰かで、沖合の光で、でもそれらの美しさが、聴き手の私の日常のためには咲いていなくて、いつもそこに根っこがあって、いつも、その人たちのすぐそばで、その人たちのためだけに咲いていることがわかる。だから、そこにある願いや祈りがどんなものかは私は少しも知らないけれど、「ある」ということだけはわかるんだ。具体的なことは何もわからなくても、そこに私が知ることのない大切な願いがあるって、私は信じることができる。

 一人の人が、その人だけの言葉で、何かを大切な人に伝えようとしているその瞬間の言葉は、言葉を「生きている炎」に変える。それは言葉に、その言葉を語る人の呼吸や心臓の音が混ざっていくから。メタファーとして「混ざる」って言っているんではなくて、たぶん、本当に。伝えようとする気持ちが先走ることで、言葉を書こうとするとき、語ろうとする時、「この世のどこかの誰かが用意している定型」から言葉がどんどん抜け出して、どんどんそんな調整が間に合わなくなって、その人がひとりきりで、全身で探しながら、それこそ、目の前の人に伝えるためだけに、考えながら時に軌道修正しながら、全力で言葉を出していくその瞬間、言葉は、当たり前だけど体に巡る他のリズムと一緒に生まれている。心臓の音や、呼吸の音、脈拍、まばたきの速度。それが言葉だけのデータになっても、気配として残ることはあまりないし(でも私の詩の理想ってここ)、残ったとしても読む人全てに伝わるわけではないけれど、そしてそれを一番大事に受け取るというより、そのリズムによって伝わる感情の方がきっと言葉を受け取る側にはリアルで鮮烈なんだとも思うけど。でも、そういう「生きている人が書くことでしか残らない言葉の呼吸音」が、歌詞はきっと残りやすい。それは歌が、呼吸に近いから。そして聴く人も、その人の、話し声よりもっと個人的な声として聞いているからかなぁって思う。そういう歌詞は、その人の声じゃないと、その人の歌い方じゃないと、言葉が完成しない感じもして面白いなぁ。言葉がどんどん「その人だけのもの」になるね、みんなが共有していてとても不自由で不便なものであるはずなのに。この世界に生きていたら、自分のすぐ近くの範囲だけは、世界を手作りできるような気もする、実際それはそうなのかもしれない。言葉も多分そうで、不便ではあるけど、「私のためにある言葉」なんてないけど、でもすこしずつ、伝えようとし続けていると言葉が、私の体に近づいてシンクロしていくのかなぁと思う。そういう言葉は、「私」じゃない人にも、伝えたい意味以上のものを届けてくれる(気がする)。
 何の話をしているかなんてわからなくても、第三者にとっても、宝物みたいになる言葉だ。人にとって言葉は、とても怖くて(少なくとも私はそう)、伝えきれないものだって知っているから、だから、「伝えようとする」意思が宿った言葉は、どんな言葉よりきらきらしていく。コンビニがある世界、オーロラ色のビニール傘がある世界、SNSがある世界、そういう世界に自分以外の誰かも生きていて、「誰かに伝えようとしている」って、それは時に、宝物みたいな真実になる。「誰かに伝えようとすることを諦めてない」誰かがいるってこと。どんな愛が信じるにふさわしいかより、どんな友達が付き合うべき友達なのかなんて、そんなことより、それが、今の「精一杯の自分」を愛するために、必要な真実になる、そんな日もある。

※柴田聡子「後悔」