11.永遠を誓わない、という愛/「すみれの花咲く頃」「白いライラックがまた咲いたら」

 恋や愛が、時間の経過によってどうなるか。永遠に変わらないと誓うことは容易いけど、変わらないなんていうことがその瞬間の愛の大きさを証明すると信じているなんて、なんだか、どこか悲しくて。だって、その人はその瞬間にしか生きていないのだから。これからの自分の全てを人質にしなければ誓えないなんて、「愛」が少しも信じられていない気がして悲しい。刹那的な愛は人を不安にさせるが、それでも愛は刹那的なものだ。

 愛はあっという間に変わってしまうものかもしれないし、関係性は変わるのかもしれない。でもその瞬間の全てが通じ合ったような錯覚は、その「錯覚」は、それでも確かにあったのだと言っていいんじゃないだろうか。人にはそうやって、不確かなものを「きっとそうだったんだ」と唱えることでしか積み上げていけないことがある。

 今日は、恋と花の話をします。
 宝塚歌劇でよく歌われている歌「すみれの花咲く頃」の原曲は「白いライラックがまた咲いたら(Wenn der weiße Flieder wieder blüht)」という曲で、ライラックがすみれになっているように、それ以外の歌詞も大幅に変更されている。一つは、愛が変わっていくことにたいして、歌の人々がどうやって向き合っているかの違い。原曲はタイトルにもある「また」がとても大切な意味を持つ。

白いライラックがまた咲いたら
私は私の中で一番にきれいな愛の歌を歌う
何度だってあなたの前で跪いて
あなたと白いライラックの香りに包まれる
白いライラックがまた咲いたら
私はあなたの赤い唇にうんざりするほどのキスをする
私たちはおとぎ話にいるような恋人になるの
白いライラックがまた咲いたら
(※1)

 「永遠に変わらない愛」を誓っているようで、次の季節が巡るまでのことは何も語られていない。変わらないことがむしろそこまで重視されていなくて、未来にも当たり前にある愛のことをそのままに歌う。不安が一つもないかのように。
 ずっと愛するのはこの歌の中では当然のことなのだろう。この歌の前半に「春よ、私と同じくらいあなたを愛している季節」「春よ、100%の幸福があなたを待っている」というような歌詞(訳は私がしてるので間違ってたらすみません)があり、きっと、愛そのものではなく、春が来たことで「あなた」が幸福に満ちることを喜ぶ歌なのだろう。「私の愛」とは「あなたの春の幸福」の一要素でしかなく、愛があなたにとってどんなものか、愛が永遠だと信じられているか、などは一切主題となっていない。愛は当たり前に未来にあり続けると「私」は信じており、そして「あなたの幸福」のひとかけらでもあると信じている。本当の意味で、愛し合うとはこういうことだろうな。自分の愛が相手の幸福だと心から理解して、その人は生きているんだ。

 この歌の中では、愛が永遠であることは、誓わなくてもいいような当たり前のことなのだろう。永遠は変わらないことを意味するが、ここでは、春という美しい季節が来て「あなた」が一層幸福になることが歌われている。そこに自分の愛があり、その幸福の中心に「恋人たち」として立つことを予言する。「愛は変わらない」かもしれないが、人生は時の流れと共に変わる、それこそ季節が巡るたびに見える景色は変わっている。「あなた」も「私」も毎日違う時間を生きて、その時の幸福や悲しみを抱えている。本当はだからこそ愛は永遠ではないし、それは仕方がないことなのだけど。ここにある「変わらない愛」は、「そう信じている」というだけだ。本当にそうなのではなくて、それを事実として心から信じているというだけ。相手に誓うためでも、相手の不安を払拭するためでもなく、「疑い」など微塵もない世界で、心の底から本人も相手も愛が変わらないと信じることの幸せだ。
「変わらない愛」を、変わっていく日々の中で歌う。変わっていく日々は、人生の儚さや人の心の移り変わりの激しさの象徴のようにも思うけど、そこで少しも疑わずに愛を歌う時、それは「変わりゆく日々」の賛歌にもなっていく。未来が見えないこと、いつまでも同じ日々が続くわけではないこと、それは人にとってとても不安なことだけれど、愛があるなら、それらが新鮮で美しく感じられる。その愛が本当に永遠かどうかは関係なく、そう信じているからこそ、「移り変わりのある人生」を豊かなことだと思えるんだ。

 愛の誓いはとても重大な宣言のように受け止められ、誓いのある愛は大きな愛として解釈されることも多いけれど、それは移り変わっていく人生の不安を、愛への不信感としてぶつけてしまったその結果のように思う。なにもかもが変わっていく中で「変わらないこと」を誓ってほしいと願うのは苦しく、この歌のようにただ変化していく日々を生きる背骨のように愛を信じられたら、それが一番なのだろう。信じて、一つも不安を抱かずに、花とともに約束をする。花は当たり前に次の季節に咲く。少しもそのことを人は疑わない。それと同じくらい、愛が永遠だと当たり前に信じている。 

 日本語版の歌詞「すみれの花咲く頃」は、原曲とはある意味では真逆で、愛そのものを永遠だとは少しも思わず、そうして、「誓い」を求めない歌。未来の約束の象徴だった「ライラック」と違い、すみれは出会いの記憶としての花。過去の花だ。「わすれないで」と歌う歌。

すみれの花咲く頃
初めて君を知りぬ
君を思い日毎夜毎
悩みしあの日の頃
すみれの花咲く頃
今も心震う
忘れな君我等の恋
すみれの花咲く頃
(※2)

「すみれの花咲く頃」は宝塚の演出家・白井鉄造によって訳され、かなり歌詞が原曲より変更されている。花の種類が違うのもそうだけれど、それよりも、原曲より未来への無垢な信用が消えているのがとても面白く、でも本質的には同じことを歌っているなぁとも思う。「誓い」は愛に不要であるということ。当たり前に愛がその時そこにあったことを信じている、という点は同じなんだ。

 人は変わっていくし、だから忘れていく。忘れてしまう可能性があることを、一人の人の不誠実さではなくて、ただ「未来があるその素晴らしさ」の断片のように捉えていると感じる。全ての人に未来が来て、過去は必ず遠のいていく。それは本当はとても素晴らしいことです。未来が来ること。いつまでも同じ時間の中に閉じ込められないこと。人が大切な瞬間を忘れてしまう可能性にさらされ続けることは、さみしいけれど、でもそれは「生きている」ということです。
 ずっと愛してではなくて、「忘れな君」と歌うのは、忘れてしまうかもしれないそんな人の感情の儚さを否定しない歌詞であり、言っていることは全く違うはずなのに、「白いライラックがまた咲いたら」にとても近くもある。そこに、不安が少しもない。自分の中にある不安や疑いを相手にぶつけず、永遠というものに縋ろうとしていない。別れそのものの歌詞のようだけど、「忘れな君」は、ともに生きていながらも、全く違う人間として、全く違う人生を辿っていく相手への、その「違い」をどこまでも否定しない、その人にはその人の未来があることを決して踏み躙ることがない、柔らかく、心の底から相手を愛した言葉のようにも思う。決して、人が簡単に忘れてしまうことを責める歌ではない。

 そう思うのはこの歌が、宝塚歌劇という場で歌われることも関係しているのかもしれないなぁ。永遠はどこにもない世界。いつかは必ず全ての演者が宝塚の舞台から去っていく。「同じ」はなくて、「ずっと」はなくて、それでもその瞬間を観客はとても大切に思っている。そして、これは別れというより出会いそのものへの賛美なのなのだろうな。いつかは忘れてしまうかもしれないくらい、それぞれが違う人生を生きていること。それなのに、ある一瞬は出会えたこと。それが素晴らしいという歌に思える。

 出会いのその瞬間の感情はその時だけのものだから、鮮烈に心に突き刺さって、いつまでも思い出すことができる。愛が生まれるのはいつもある一瞬で、だから本当は刹那的な感情でしかない。その後も愛が続いていく錯覚があるなら、そこには次の刹那の愛があるということ。決して、最初の愛が引き伸ばされていくわけではない。でも人は、そんな一瞬の愛が、儚く消えても、姿を変えていっても、その愛が確かにその時あったことを確信し続けることができる。それは、人の一つの勇気だろうな。「忘れな君」は、出会いの瞬間には生まれることのできない、愛の言葉なのかもしれない。過去にあった一瞬の愛情が、その後決してどうなろうと、二人に何が起きようと、「その時にその愛があった」ことは疑いようのない事実であると信じてる歌。愛が永遠であるとは信じていないはずなのに、変わっていくその人を、そして自分を、抱きしめるような言葉。どんなふうに生きていこうとも、どんなふうな人生が来ても、あの時の愛情は本当だったと、ずっと信じているという歌でもある。

(※1)「白いライラックがまた咲いたら(Wenn der weiße Flieder wieder blüht)」の歌詞のパターンは探してみるといくつかあり、そのうちの一つを私なりに訳しています。
(※2)宝塚歌劇団「すみれの花咲く頃」