第1章 100年は無理でも その3

 さて。
 わたしは昭和38年生まれ、西暦でいうと、1963年の生まれになります。その頃に生まれ育った本好きの子どもが、どんな本を読んでいたかといいますとーー。
 その頃の子どもの本の主流は単行本、装幀は豪華で、丈夫にできていて、その分価格も高く、多くの小学生がもっぱら本は図書館で借りて読んでいたと記憶しています。
 あの頃、本を買ってもらうといえば、特別なことで、誕生日やクリスマスにお願いしてやっと買ってもらい、大切に何度も読みました。本は箱に入っていたり、ビニールのカバーが掛かっていたりして美しく、それを大切に本棚に並べました。あれから何十年も経ったいまも『ドリトル先生と緑のカナリア』を買ってもらったときの気持ちやあの本を抱いているときの、しんとした幸せな気持ちは覚えています。4年生のときでした。
 当時は図鑑や世界の名作など、いわゆる全集物も多く、そういったものは毎月1冊とか2冊とか分冊で買っていました。我が家だと図鑑をそんな感じで揃えてもらいましたが、最後の方になると、
「もう買わなくていいわよね」と母に打ち切りにされたという悲しい記憶もあります。
 我が家は自衛官の家庭で、引っ越しが多かったということもあり、また母は本を読まない人だったので、両親は本棚を持っていなかったと記憶しています。父は本を読む人で、小説の投稿が趣味でしたが、源氏鶏太辺りをさらっと読むようなタイプで、活字マニアとまではいえませんでした。
 なので、わたしと6歳下の弟に、積極的に読み聞かせをしたり、良書と呼ばれるような子どもの本を買い与えるタイプの家庭ではありませんでした。といっても、当時はインターネットが誕生するはるか以前のことなので、一般的な家庭で、評価の高いあるいは人気の児童書を揃えるための情報を手に入れるのは難しいことだったろうとも思います。
 本好きの子どもに本を買ってあげたい、でも何を買えばいいのかわからない(おまけに子どもの本は高くてかさばる)となると、当時の親世代は大変だったろうと思うのです。
 でも父は本を欲しがる我が子がかわいかったのでしょう。新潮文庫でアンデルセンやO・ヘンリを買ってくれて、小学生のわたしは、少しだけ背伸びして、それらの本を繰り返し読みました。どちらの著者の本もわたしの生涯の愛読書になったので、感謝しています。またある意味、作家としての方向性を決めた著者たちとの出会いにもなったので、不思議な気持ちになることもあります。

 といっても、昭和のあの当時でも、もちろん家中に本が溢れていた本好きの家庭や、金銭的に余裕があって、惜しみなく我が子に本を買い与えた家庭、文化的なことには無尽蔵にお金をかけるタイプの家庭もありました。名作絵本をたくさん揃えて、優しく読み聞かせをしたりする家もありました。
 当時習っていたピアノの先生の家に子どもの本がたくさんあって、ピアノを習うためではなく、待ち時間に本を読むために通ったりしました。あの頃は友達の家に遊びに行けば、本棚をまずチェックしていたかも知れません。『モモちゃんとプー』や『いやいやえん』とはそんな風にして出会ったような。
 子どもの頃、本がある家に憧れました。
 わたしは昔から、他者をうらやむたちではなく、何か欲しいものがあるときは努力して自分で手に入れればいいや、と思う人間なのですが、「子どものときから本に囲まれた環境」だけは、自分ではどんなに努力しても手に入らないので、心底憧れ、うらやましかったのを覚えています。
 そして実は、裕福で医師の夫を持つ母方の伯母の家が、子どもの本が無尽蔵にある家だったのです。それを知ったのは、伯母のひとり息子であるいとこが中学生になり、もう子どもの本は卒業するから、ということで、わたしとひとつ年上のいとこの家に、大量の子どもの本が送られてきたからなのでした。
 小学5年か6年生のときでした。ここで出会ったのが、『宿題ひきうけ株式会社』を初めとする日本の創作児童文学でした。絵本の『かたあしだちょうのエルフ』もここに入っていたかも知れません。アーサー・ランサムとの出会いもここからだったはず。
 実はこのいとこが読んでいた本のラインナップがなかなか凄かったのです。『宿題ひきうけ株式会社』が入っている、というところからもうわかるというべきか、あの時代にリアルタイムで評価され、のちの児童文学史に残るような本と、海外の名作が軒並み入っていました。ひとつ年上のいとこと分け合う状態でこれだったので、全体で一体何冊あったのだろうと想像すると、呆然とします。
 伯母はもう亡くなったので、本好きでなかったはずの伯母があれだけの本をどう選んだのか聞きそびれたのですが、おそらくはどこかの児童書に強い書店さんにお任せにしたのか、もしかしたら何らかの選書サービスのようなものが、当時すでにどこかにあったのだろうか、と推測しています。
 あの宝の山のような本は、ほんとうに嬉しかった。何しろいとこと分け合ったので、シリーズものは途中の何冊ずつかしかなかったりしましたが、ない本は図書館で探して読みました。
 図書館ーー図書室とも呼んだ、学校の中にある図書館は、わたしにとって最上の友人であり、隠れ家であり、そこがあるから日々生きていけるような、それほど大切な場所でした。

 前述の通り、父の仕事が自衛官だったので、全国を数ヶ月から1年で引っ越す日々を10代で長崎に落ち着くまで続けました。なので、小学校は5校、中学校は2校通いました。
 するとどうなるかというと、新しい学校に転校するとまず、学校の図書館の場所を探して覚える子どもになりました。教室の後ろの、ロッカーの上辺りにある、学級文庫のラインナップのチェックも忘れません。
 もともと本が好きだったこともありましたし、人間関係のリセットの繰り返しの日々だったので、新しく友達を作るより図書館に入り浸る方が楽しかったのだと思います。それと基本的に、同世代の子どもたちの喜怒哀楽の激しさ、遠慮の無さも苦手だったのではないかといまとなっては思います。学校という場所では、強制的にクラスメートが決まっていて、人間関係を選べない、ということも。
 わたしはいくらか早熟な子どもで、活字を読むのが得手だったということも、リアルな友人関係より活字の方を選びがちな理由のひとつだったのだろうと思います。まわりの子どもたちが違う世界の子どものように幼く見えてしまって、戸惑った時期もありました。
 そんな子どもだったわたしをそれでも愛でて、慈しみ、指導してくださった先生方がいたり、特に中学生になってからは、気のあう友人たちとの出会いもあったりして、生きることが楽しくなっていったのですが、小学生の頃は、ほとんどの日々、学校が性に合わなくて、生きていくことを楽しめない子どもでした。そんなわたしをして、せめて明日までは生きていこう、学校に行こう、と思わせてくれたのが、図書館や学級文庫に並んでいたたくさんの本たちでした。
『ナルニア国ものがたり』や『ドリトル先生』、『シートン動物記』を読むために、学校に通っていました。
『ニルスのふしぎな旅』や、『家なき子』とともに心ははるばると旅をしました。
『魔法のベッド』や『ピーターパン』とともに空を飛びました。
『ファーブル昆虫記』で昆虫の世界の不思議にふれ、同時に、『みつばちマーヤの冒険』のファンタジー世界も愛しました。
 山中恒の作品群は痛快で、その上に感動で心を揺り動かされ、砂田弘の『さらばハイウェイ』で社会について考え、『死の国からのバトン』では、手渡されたバトンに胸が熱くなりました。そして、忘れてはいけない、前述の『宿題ひきうけ株式会社』もまた、ひととして生きていくということ、自分もこの社会を構成し、未来を作っていく人間のひとりなのだということに気づかされ、著者の熱い想いを託された作品でした。
 椋鳩十や戸川幸夫、中西悟堂も読みふけり、生きものたちの命のぬくもりを感じ、その愛情や愛おしさに涙したりしました。
 また昭和のあの時代、わたしが子どもの頃は、まだまだ敗戦の記憶は新しく、次の世界の主役となる子どもたちに平和の大切さを訴える作品も多く、『ふたりのイーダ』や『猫は生きている』『ゆみ子とつばめのおはか』など、いくつもの作品が忘れがたい記憶として残っています。椋鳩十作品の中の、『マヤの一生』なども、マヤの最期が「供出」という言葉のむごさとともに、忘れられない記憶になっています。
 
 あの頃、本を通してたくさんのことを知りました。読まなければ知らなかった知識や、知らなかった感情がたくさんあり、日本のあの時代に生きる生身の子どもでは体験できなかった経験を、想像の中でたくさんしました。
 それは活字の中での体験ではあっても、世界の本質にふれるような出会い、センスオブワンダーだったのだと思うのです。
 自分という存在は一体何者で、どうしてこの世界に生まれてきたのか。そのことに意味はあるのか、はたまた存在しないのか。人間とは何なのか。なぜ争いは繰り返されるのか。
 子どもの頃、日々生きていく上で、言語化はされていなくても、疑問に思っていたたくさんの事柄に気づかせてくれ、自分で考えるための道筋を与えてくれたのが、児童文学ーー子どものために書かれた本でした。
 いや、本を通してーー本の形をした存在を通して、子どもたちへと書き残された、たくさんの言葉、未来に託されたメッセージをわたしは受け取っていたのです。物語の世界で心遊ばせ、面白さに夢中になりながら、たくさんのものを受け取っていたのです。

 のちに、子どもの本の業界で仕事をするようになったとき、その世界の一種神聖な面にふれて、感動したことを覚えています。
 著者もそして出版社の人々も、ときとして、
「子どもの本なんか儲からない。こんな仕事するもんじゃない。年々悪くなっていく」
 なんて言葉をうそぶくように口にすることがあっても、心の奥に、凜とした、美しいものに向かい合う気持ちを持っていて、子どもたちに良いものを残していこう、と額づくような真摯さを感じる瞬間があったのです。自分たちは子どもたちのための良いものを作っている、という誇り高い気持ちを感じることがあったのです。
 これは特に、少し前までの、児童文学業界にいまよりも専門性が強く感じられた時代には顕著でしたが、いまはどうなのでしょう。わたしは古い人間なので、いまも同じだといいなあと思っています。
 軽装版の児童書の、とある文庫が始まった頃、ある児童書の版元の編集者が、
「あそこはね、長年児童書を出したかったんですよ。児童書の文庫を出せることが、とても嬉しいらしいですよ」
 と、嬉しそうに話していた、その表情を覚えています。

 さて。わたしは子どもの頃から物語を書いていて、作家志望でした。『ナルニア国ものがたり』のような、何巻にも渡って長い長い物語が続き、やがて完結するような、大長編ファンタジーを書きたいという望みがあり、そのためには児童文学の道へ進むか、SF作家を目指すか、どちらかだろうと十代の頃、考えました。いまだったらライトノベル作家を目指したり、オンライン作家になろうとしていたかも知れませんが、当時はほぼその二者択一だったと記憶しています。
 どのジャンルの作家を目指そうと進路を考えたとき、何よりも子どもの本を書く作家、児童文学作家になろうと決めたのは、やはり子どもの頃、自分自身がどれほど子どもの本が好きで、助けられてきたかという想いがあったからだと思います。
 わたしもまた、明日まで生きていくのが辛いような子どものための物語を書こうと思いました。次のページをめくるために、今日はまだ死なずにいようと思えるような。生きることに疲れ、弱った子どもを支える、杖になれるような本を書こうと思いました。
 そして、いまの時代、この星に生まれてきたということの意味を、生きていることの尊さを、たくさんの美しいものや楽しいものがあるということを、気づきにくいような、ささやかな、そして素晴らしい幸せのことを、物語の形にして、残そうと思いました。
 これまでの人間の歴史に於いては、間違ったことも、取り返しのつかない悲劇もあったけれど、これから先の未来はまだいくらも変えられるだろうという望みを、わたし自身が受け取ったバトンを、次の世代に本の形にして書き残そうと思ったのです。
 できるならば、図書館に入れてもらえるような立派な作品を書き、そこでわたしの本が、かつてのわたしのような子どもたちを友達として待つことができれば、と夢見ました。
 いつも、図書館の棚いっぱいにある本でも、すぐに読み尽くしてしまっていたから、本棚に並ぶ本を1冊でも多く増やせるように、わたしが頑張ろう、と思ったのでした。

【第2章に続く】



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