第1章 100年は無理でも その2

 それにしても、自分が読んできた多くの本を通して、先達から受け継いだ児童文学観や、子どもの本を書くための技術論、児童文学史の知識などは、この辺りで一度文章にして残しておきたいと思いました。
 年齢的なものもありますし、特に東日本大震災以降感じることが多くなった、日常がこの先も平穏に続くとは限らないという実感もあり、こういったものを語る機会を無駄にしたくないと思わせるのでした。いま書くことが、ひとつの巡り合わせなのかな、と。
 言葉にしたいと思う想いに、真摯なものがあり、読んでくれた人たちにとって何らかの価値があれば、論文の形をとらずとも、肩の凝らないエッセイを志向したとしても、意味のあるものになるかな、などと思いました。
 口にするものが、からだを作るように、わたしが読み、受け取ってきた言葉や思想は、わたし自身の言葉や思想の素地となり、綴ることでそのまま、先達の言葉や思想をも書き残すことになるかも知れないと思い、夢見るのです。

 そして。
 わたしが読み、愛してきた、昭和から平成の子どもの本やその環境は、令和の時代のいまとではだいぶ違ってきています。
 わたし自身も、いまだ児童文学作家の看板を掲げながら、書く仕事のメインの場はほぼ、大人向けの文芸の方に移ってしまっているので、現役の子どもの本の作家とはいいきれないところもあります。
 なので、わたしの持つ児童文学観や作家論はもはや古くて遅れているかも知れない。
 そう思った読み手の方は、心の中でアップデートして、未来へ、先へと進んでいってくだされば、と思います。なにがしか、糧になることも語れればと思いますが。 

 そして、わたしが子どもの本の書き方について語るとき、その理想とする形は、自分自身が子どものとき愛読してきた本、あるいはその進化した形なので、この文章を読んでくださっている、若いあなたの理想の本とは、違うことも往々にしてあると思います。
 それも仕方のないことというか、どちらが間違っているということもありません。子どもの本を書きたいと思うとき、大概(もちろん例外はあります。その辺の話もいずれ書けるでしょう)人は自分の中の、理想とする子どもの本を無意識にしろ、意識してにしろ、脳裏に置いて書くもので、わたしにはわたしの、理想としてきた子どもの本があり、あなたにはあなたの理想の本がある。
 一緒の本である必要もないし、無理に寄り添わせる必要もないのです。
 だから、違うな、と思うときは、そう思って流してください。
 何度も書いていますが、そもそも時代も変わっています。想定される子どもの本の読者像もたぶん変わってきています。

 たとえば、わたしが子どもで、子どもの本の現役の読者であった頃、児童文学を学ぶ者として、意識して体系的にたくさんの本を読んでいた頃、そして夢が叶い、子どもの本を専門に書いていた頃は、子どもの本といえば、ハードカバーの単行本がメインでした。
 その頃の読者は、いわゆる「読める子ども」を想定して書いていました。多少難しいことや、シビアな展開を書いても許された。むしろわかりやすく書かないで、読者を信じて行間を読ませなさいと、編集者たちに鍛えられてきました。これはもちろん、当時のわたしの場合は、ということで、そうでない著者や作品群もありました。どちらが上ということもありません。むしろわたしは、「読める子ども」向けの本しか書けない、無器用な作家だと判断されていたかも知れません。
 それがある段階から緩やかに軽装版(青い鳥文庫などの中学年・高学年向けの文庫レーベルですね。わたしの作品ですと、フォア文庫時代の『シェーラひめのぼうけん』が軽装版です)が中心になってきます。
 いまは書店で子どもの本のコーナーを見ると、絵本と絵本に近い形の低学年向けの子どもの本、そして軽装版の棚がほとんどを占めていると思います。かつて花形だった高学年向けの読み物の本は、印象として、ずいぶん少なくなりました。
 軽装版の本は、単行本と違って、子どもたちが自分で本を選び、自分のお小遣いで買います。ある意味、コミックに近い読み方をされているといっていいでしょう。
 すると、どうなるかというと、これは実際にいくつかの児童書の版元(出版社のこと)の編集者とやりとりをして聞いたことなのですが、読者の裾野を広げるために、よりわかりやすく、テンポが良く、キャラクターが魅力的な作りの物語が歓迎されるようになります。エンターテインメント性が要求される、といっていいでしょうか。そのためか、ライトノベルの世界で執筆している作家が、軽装版の子どもの本も手がけていることがあります。
 一方で、変わらず単行本の形で上梓される、より文学的な作品群があります。リアリズムと呼ばれるものならば、大人向けの文芸の世界で出版される純文学に近いような繊細で完成度の高い作品(海外のYAと通じる作品群だと思うのですが、その辺りはわたしは詳しくないので、詳しくふれずにおきます)や、壮大なファンタジーなどがあります。こちらの作家たちは一般文芸の世界でも作品を書いていたりします。現状の、わたし自身の作家としての立ち位置は、ここにあります。----実感としては、依頼に応えて作品を書いているうちに、いつの間にか、ここにいました。
 個人の主観としては、ここまで軽装版が子どもの本の世界でメインストリームになるとは思っていなかったですし(当たり前のことですが、それが悪いとは思っていません)、かつては子どもの本の世界は、もう少し専門性が強く、その世界の中で、ひとつの文学の世界が完結していたと思います。変化の中で書いてきた著者のひとりとしては、ここまで他のジャンルと相互交流が進む世界になるとは思っていませんでした。
 そして、子どもの本の作家やその書いたものが、大人の本の世界で評価されることによって、結果的に、日本の子どもの本のレベルは低いものではないと認められるようになろうとは思っていなかったかも知れません。
 いま思い返すと、昔の自分の若さというか、青さを感じて恥ずかしくなるのですが、わたしは10代から20代の、子どもの本の作家を目指していた頃、作家になった自分がレベルの高い物語を書くことで、日本の子どもの本のレベルの高さを証明しよう、などと、身の程知らずにも夢見ていました。
 日本の子どもの本は、こんなに面白くて、名著もたくさんあるのに、子どもの本だからと手に取らない人が多い、そんなの悔しいと憤っていました。
 将来のわたしが子どもの本の作家を名乗ったまま、大人の本の文壇でも評価されるような本を書けばいいんだ、と夢見ていました。
 遠い昔の話です。
 いまはもう、子どもの本だからと、一冊の本の評価を下げたり、はなから手に取らない人は減ったように思います。
 わたしごときが頑張って「レベルの高い物語」を書かなくても、児童文学を書いてきたあの作家、この作家が綺羅星のように名著や話題作を書き、ベストセラーになっています。
 昔は、こうじゃなかった。
 良かったなあ、と思うのです。気がつけば一応は、大人のための本も書ける作家になったいま。業界の端っこで、ほっとしているのです。

 けれど、この時代にあえて子どもの本を書こうと思うとき、では書き手にとっての「理想の本」----そういうともしかしたら表現に抵抗を感じるとするならば、書き手が「目指すべき本」とはどういう本になるのか。あるいはもはや、その定義すら必要ない世界になったのか。
 さて、一体どう考えたものか。
 参考になるかどうかはわかりませんが、次回の連載で、わたし自身の(たぶんいささか古風な)「理想の児童文学の姿」について書くことになるかと思います。
 わたし自身が子どもの頃、好きだった子どもの本とは何だったのか、そんな話も。

【続く】

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