3.向井秀徳さんの歌詞について/俺がおれであることを知る一瞬

 青い春、とかいう速度を光速に変えてしまう音楽。そのせいで何年経とうがあの頃が、終わってない気がしてしまう。Number Girl。「速さ」には、いろいろある、あるけれど、ナンバーガールの音楽は「光速」であると確信している。速さによって、すべてが止まる。何度聴いたって、初めて耳にしたあの瞬間に戻ってしまう。年など取れない、記憶は消えない。それは、あのメロディと、そしてあの歌詞の力でもあると思う。

ねむらずに朝が来て ふらつきながら帰る
誰もいない電車の中を 朝日が白昼夢色に染める
ああ制服の少女よ 気が狂いそうな青空と朝日のせいで白くまぶしい
俺は うすく目を開けて 閉じてそしてまた開く!!
現実と残像はくりかえし 気がつくとそこに
ポケットに手を突っこんで センチメンタル通りを
練り歩く 17歳の俺がいた
朝日は いまだ白くまぶしくて
俺はおれをとりもどすのをじっと待ってる
(※1)

 向井さんの歌詞には、時間の経過がほとんど感じられない。「OMOIDE IN MY HEAD」の歌詞では、徹夜明けの電車の中で、制服の少女を見かけ、自分と彼女のギャップによって、一瞬、過去の自分の幻を見る、という歌詞だ。これは彼女を視界の中に見つけた、その瞬間の頭の中で起きた感傷の爆発を、書き止めたような言葉だろう。一瞬という時間を、ほとんど1曲分の9行に閉じ込めている。けれどそれは、「膨らました」結果の9行ではない。むしろこの歌詞は、永遠よりも膨大な一瞬を、削りに削って9行に、落とし込んだように見える。それはおかしなことだろうか? いいや、とても自然なことだと、きっと誰もが思うはず。

 一瞬の感情が、無限の情報を持つことがある。そこには、「衝動」という言葉がぴったりもくる。人の衝動、反射的感情。長い長い時間をかけた思考よりもずっと濃密にうごめいて、もはや全貌を知ることはできない、関連づけることもできない、思ってしまったこと、感じ取ってしまったことが、理屈や情緒を飛び越えていく。それを、「あっ」と言ってやりすごしているのだ。誰もが、日々の中で。言葉も映像もめちゃくちゃに渦巻いて、自分のなかで大きな爆発があった。けれどその痛みに対する声しか発することができない。衝動をほどいていくには、あまりにも時間が足りないし、過ぎてしまえばその一瞬は、すぐに色褪せていく。だから、後付けではなく、その一瞬を、そのときのまま言葉に叩き込む、そんな音楽があれば惹かれてしまう。頭が真っ白になるような一瞬、その中にあった本当の色を、思い出せるのは快感だろう。なにより、それが歌であれば。言葉は時間の流れに逆らわず、とめどなく耳に注がれていく。自分のペースで読める本の言葉とは違って、歌詞によって表された「一瞬」は、より時間と密で、その儚さを、そうしてその膨大さを、忠実に再現してしまう。

ヤバイ さらにやばい バリヤバ
笑う さらに笑う あきらめて
(※2)

 ナンバーガールの歌詞には、人が反射的に発言するような言葉、急なうわごとのような言葉が多く登場するが、それが歌詞の中で不自然さにも緩さにもならずに、むしろ歌詞を強化する言葉として成立してしまうのは、歌詞がそうした「一瞬」を捉える言葉であることが大きく関係しているように思う。「一瞬」は、決して整理されることがない。段階を踏み、理屈として無理やり、わかりやすく説明できたとしてもその瞬間に、あの鮮烈さは消え失せる。感情だけでも、理性だけでもなく、肉体そのものとしてしか、感じ取れないのかもしれないな。肉体に染み付いた、生きてきた記憶とその蓄積、ルーティンを、切り裂くように反射がくる。そのとき、その人間にとってその瞬間は、「永遠」を超える「一瞬」となるのだろう。感情は理性に、理性は肉体に、引きずられ、互いを突き放すこともできずに思い知る、自分たちが強く結びつき、一つのものとしてしか存在できないことを。一瞬という瞬間の強さは、そのことを気づかせてしまう点にあるのではないか。言葉による整理など必要ではなかった、混沌の中にあるのは、まるで見えていなかった自分自身の、全貌であるのだから。


※1 NUMBER GIRL「OMOIDE IN MY HEAD」
※2 NUMBER GIRL「ZEGEN VS UNDERCOVER」