4-3.吉祥寺編 松家仁之『優雅なのかどうか、わからない』〜心がやわらかくなれる場所

この連載が『「街小説」読みくらべ』というタイトルで書籍化することになりました! 2つの街についての書き下ろしもあります。2020年7月10日発売予定です。詳細はこちらからどうぞ。

 三鷹駅から玉川上水沿いに南に下って行くと、井の頭公園から拡がる森に突き当たる。そのまま大通り沿いに下り続けると、三鷹の森ジブリ美術館がある。もちろん吉祥寺駅からバスでも行けるんだけど、お奨めは三鷹駅南口から出るコミュニティバスだ。ジブリのキャラクターが車体にたくさん描いてあって気持ちが上がるし、なにより吉祥寺の喧噪に触れなくてすむぶん、落ち着いた気分で行ける。

 この美術館、ただ行っても入ることができない。事前にローソンでチケットを買わなくてはならないのだ。言い換えれば、そのときから旅は始まっている。三鷹駅は吉祥寺の隣なのにずっと静かだ。いや、さっきはバスがいいって言ったけど、あまりたくさん人の歩いていない道を歩いて行くのもいいな。

 玉川上水にはほんの少しだけ水が流れていて、木々が植わっている。僕にとってこれは心の原風景だ。小平市に住んでいたとき、小学校の目の前が玉川上水で、こっそり水辺まで降りて遊んでいた。今考えると危ないんだけど、そのときは全然そんなこと思わなかったな。それで玉川上水が好きになって、小学校の教科書に載っていた玉川兄弟の記述をやたらと熟読したりした。

 おっと、多摩地区に育った人は誰でも知っている玉川兄弟だけど、他の場所で育った人は知らないかな。ほら、羽村からずーっと江戸まで、多摩川の水を引く大工事をした人ですよ。1653年にこんなものを作ったなんてすごすぎる。これで江戸の庶民も大いに助かったんだからね。でも結局、なんだか太宰治が入水自殺をした川でしょ、みたいな位置づけになってしまって悔しい。

 話を戻そう。15分ほど歩いて、ようやくジブリ美術館に辿り着く。といっても土日ならおいそれとは入館できない。建物に入るまで、ずらっと行列する。けれども大丈夫。大きな兵隊のオブジェがお出迎えしてくれる。列に並んでいる人も笑顔で「あ、巨神兵だ!」なんて言っている。サイトで調べたら、あれは巨神兵じゃなくてロボット兵というらしい。でも形は『ナウシカ』の巨神兵のまんまだ。

 列に並んでいる人はいろんな言葉で話している。中国語、韓国語、英語、そのほかもろもろ。みんな楽しそうだ。全員がジブリのアニメが好きで、子どもの頃から何度も見ていて、この場所に来ることにわくわくしている。表情を見るとよく分かる。こんなに幸福な場所があるだろうか。確かにディズニーランドも幸せだけど、ジブリ美術館はもっとこぢんまりしているし、なんだか手作りっぽい。それがいい。

三鷹で「国際化」について考える

 僕がいちばん驚いたのは、中に入った展示のどこにも、日本語以外の説明がないことだ。国際化するなら、最低でも英語、それに中国語、韓国語なんかの表示も付けるのが当たり前、なんていう思い込みが崩れる。ここでしか見られないアニメや、有名な映画を制作するための資料を見れば、言葉が分からなくても多くのことが分かる。そしてもっと知りたければ、日本語を学べばいい。そして実際、多くの人々がジブリ作品を始めとするアニメに魅せられて日本語を勉強している。

 そうか。作品に魅力があれば、人は世界中から来てくれるし、言葉の壁だって乗り越えてくれるんだ。そういうことは理屈では分かっていたつもりだけど、実際に目の当たりにすると強く驚く。こんな三鷹の森の中で、奇跡が今、進行中という感じだ。歓びに溢れている観客たちを見ていると、国際化するにはまず英語力を上げること、みたいなお題目がいかに虚しいかがよく分かる。いくら英語でしゃべったところで、魅力がない人の話は誰も聞かないよね。

 サイトで宮崎駿はこう書いている。

こんな美術館にしたい
おもしろくて、心がやわらかくなる美術館
いろんなものを発見できる美術館
キチンとした考えがつらぬかれている美術館
楽しみたい人は楽しめ、考えたい人は考えられ、感じたい人は感じられる美術館
そして、入った時より、出る時ちょっぴり心がゆたかになってしまう美術館!

 ああ、なんと素晴らしいんでしょう。そしてこう続ける。

こういう美術館にはしたくない!
すましている美術館
えらそうな美術館
人間より作品を大事にしている美術館
おもしろくないものを意味ありげに並べている美術館

 いわゆる日本で言われる「アート」って、こういう感じだよね。偉そうで冷たくて面白くなくて。あるいは「文学」「思想」なんかもそうかもしれない。子どもも大人もみんなが目をキラキラさせて楽しめるアート、文学、思想ってなんだろう。

失敗した結婚生活

 さて、玉川上水沿いの道を行って、井の頭公園に面した住宅地に、松家仁之『優雅なのかどうか、わからない』の主人公、岡田が離婚後に暮らし始めた古い借家がある。ジブリ美術館のすぐそばだ。アメリカに渡ってしまった大屋さんである、高齢の女性の許可を得て、彼はこの家を大規模にリフォームする。なぜか。結婚していたあいだ、全く価値観が合わない妻に気を遣って、好きに生きられなかったからだ。

 出版社で編集者をしている48歳の彼は、とにかくお洒落なものが大好きだ。今までのマンション暮らしでも、ボルボに乗り、北欧家具に囲まれて生きてきた。彼のこうした嗜好は、一人暮らしを始めたとたん加速する。薪ストーブを置きたいとずっと願ってきた彼は、備え付けの暖炉を使ってみようとする。建築家の友人に頼んで、壁にぴったりと合う書棚を作ってもらい、膨大な量の本やCDを綺麗に並べる。風呂まわりも全面的に作りかえ、キッチンには大きな一枚板のカウンターを置く。

 思えば、妻とは全く価値観が合わなかった。国立大学経済学部を出て、金融機関の研究所に勤めている妻とは常に別会計で、収入は妻の方が上だ。岡田が自分のカードで買った家具の金額を聞いて、それだけのお金があれば、もっと良いマンションに住めたと妻は彼を批判する。お前だって高いバッグやコート、ハイヒールを買っているじゃないかと思っても、全部妻の自腹だから、はっきり口に出しては反論できない。

 増えていく岡田の本やCDの存在も、彼女にとっては邪魔なゴミでしかない。だから、岡田の書斎から本がリビングまであふれ出すと大いに怒る。そもそも彼女は、どうして本を買う必要があるのかが理解できない。そんなもの、読むときにだけ手元にあればいいんだから、図書館で借りたらいいじゃないかと言う。確かに理屈には合っている。けれども、日本中の人々が図書館の本だけ読むようになったら、そもそも夫の仕事が成立しない、ということまでは思い至らない。

 岡田のこだわりトークを聞くのも妻は大嫌いだ。岡田が話していると彼女はこう言う。「そんなに得意になって説明しなくてもいい、なるほどと感心させられるだけの評論家なんて何の役にも立たない、黙ってやることをやればいいの。それが頼りになる夫でしょ。」(82ページ)。そして彼女は夫に何をやらせるのか。常にヒールを履いている自分が歩かなくてもいいように、岡田に車を運転させる。なるほど、運転手を雇うよりはずっと経済的だ。

バブル世代の行き着く先

 こうした記述を読んでいると、冷え切った夫婦がどんなふうかがよく分かる。自分の価値観を押しつけ合い、その範囲内で相手の足りない部分を指摘し、だからお前はダメなんだと否定し、こいつさえいなければ自由でいられたのに、と思って苦しむ。愛はいつか憎しみに変わり、心も体も限りなく冷え切る。

 この作品は岡田目線だから、妻の悪い部分にばかり焦点が当たっているが、よく見ると岡田の問題点も読み取れるように書いてある。完璧主義者の彼は仕事も家事もきちんとこなし、美意識をずっと磨いている。そして感覚を研ぎ澄ますことを怠っている者を見下している。自分の中で閉鎖的なシステムができすぎていて、他人の価値観に自分を開けない。

 いつから彼がこうなったのか、あるいは若い頃からそうだったのか。それはわからない。けれども少なくとも20代の頃は、ここまで悪化していなかったのではないか。こんなに価値観の違う妻と一度は結婚しよう、と決断したのがその証拠だ。その当時は、自分とは違って現実的で、実際に生きることの能力が高い彼女の生き方に憧れていたのだろう。あるいは、その一方で彼女にはちょっと抜けたところもあって、そこを岡田は可愛いと思ったのかもしれない。

 しかし互いにダメ出しをし合い、否定し合っているうちに、相手の良いところを忘れてしまった。そしてこの貴重な人生で側にいてくれることのありがたさを感じられなくなってしまった。高学歴、高収入、高センス、高仕事の行きつく先が、こんなに寒いものだったとは。物や情報に溢れたバブル世代の価値観の行きつく先は精神の地獄だ、ということを暴いている点で、この本は読まれる価値がある。

 それでは20代の息子はどうか。彼には物欲が全くない。

そもそも日頃から、本も雑誌もCDも、区立図書館とTSUTAYAを活用し、よほどのことがないかぎり自分では買わず、机の上はいつ見てもまっさらで、書棚にならぶ本も、一定以上は増えなかった。クルマも欲しがらず、いつもTシャツにパーカーにジーンズで、スーツなんかいらないと言う。(6ページ)

 ここには両親の物欲もブランド欲もまるでない。なんというか、カリフォルニアの仙人のようだ。岡田は息子のことが理解できない。と同時に、彼の価値観に新しさを感じる。そして離婚後は自分も、車に乗ることをやめる。

 やがてアメリカに留学した息子に、美術館で学芸員をしている男性と付き合っている、とカミングアウトされる。そのとき岡田は、ようやく息子が素顔を見せてくれた、と思う。物を愛するのではなく、きちんと相手を愛する息子。しかもその相手はアートを愛している。果たして岡田は息子に学びながら、他人を受け入れ、温かく人を愛せる人間に変われるだろうか。この作品の中では彼がそうなれるかどうかはわからない。だがその予感だけは、読者にも感じ取れる。

参考文献
松家仁之『優雅なのかどうか、わからない』マガジンハウス、2014年。

5-0.福岡編 プロローグ〜祖父の思い出 に続く


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