4-2.吉祥寺編 井伏鱒二『荻窪風土記』〜100年前からサブカルチャー

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 中央沿線と言えば、サブカルチャーのイメージが強い。僕の一番古い記憶は、東小金井駅のホームで見たパンクロッカーのお兄さんたちだった。髪はツンツン立ち、鋲だらけの黒い革の服を着て、ギターのケースを担いでいる。そして発売されたばかりの初代ウォークマンを聞いていた。1979年のことだ。

 田舎の小学生だった当時の僕にとって、その異様な姿はものすごく衝撃的だった。そして特に、細い銀色のヘッドバンドが特徴的なヘッドフォンに憧れた。中学生になって、わざわざ似たものを探して買ったぐらいだ。

 あとで町田康さんにこの話をしたら、「それ俺かも」と言われた。なんでも当時、駅近くの東京農工大学には部室があって、パンクの方々が集まり曲を練習していたらしい。まあご本人でなくとも、お知り合いぐらいではあったのは確かだろう。世の中って狭いな。

 だから中央線沿線にはライブハウスもたくさんある。吉祥寺の南口から出ると曼荼羅という場所があるのだが、歌人の福島泰樹さんが詩の朗読会をするというので、知り合い二人と一緒に見に行った。いわゆる「短歌絶叫コンサート」だ。

 ドラムやピアノに合わせて福島さんが短歌を叫ぶ、だけじゃない。ボクシングも得意らしくて、途中でなんどもシャドーボクシングが入る。どうしてだろう。最後に握手してもらったけど、手をものすごく強く握られた。強く握手されるのって苦手だなあ、とそのとき僕は思った。

 結局、南口のルノアールで連れの人たちとだらだらしゃべって帰った。店内には灯籠や極端に短い小川があり、その横でカステラを二切れ食べて、緑茶をすすった。結局このルノアールがいちばんサブカルチャーっぽい感じがした。

売れないバンドマンのような作家たち

 井伏鱒二の『荻窪風土記』を読むと、中央線沿線がサブカルチャーっぽい雰囲気になっていったのは昭和初期だということがよくわかる。もともと江戸時代は将軍の鷹狩りのために、荻窪から中野にかけてしっかり森が保存されていた。

 関東大震災より前に、鳶の木下という男が夜、井の頭の池で鯉を盗み釣りしようとしたら、周囲の森では満月に照らされた狸が腹鼓を打っていた、なんて話も出てくる。こうした記述を読んでも、いかにここらへんが田舎だったかがわかる。

 井伏が早稲田界隈から荻窪に越してきたのは1927年だ。一度に2、3人しか降りない駅で、駅前には飯屋や蹄鉄屋なんかがあり、遠くには富士山が見えた。そのころ、こう言われていたらしい。「新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移っていく。それが常識だと言う者がいた」(14ページ)。

 左翼作家というと不思議な感じがするが、当時は左翼文学が大流行で、そうでないものを書いている人々はまるで売れなかったらしい。『文芸都市』という、井伏も同人だった雑誌を新宿の紀伊國屋で売ってみたが、せいぜい月に4、5冊で、それが左翼の『文芸戦線』は月100冊売れたというから驚く。

 それでは井伏は何をやっていたのか。原稿を書き、将棋をさし、釣りに行く。そのうち原稿を書くより熱心に将棋をさすようになる。こうしてできたのが、作家たちで作った阿佐ヶ谷将棋会だ。

 どういう雰囲気だったのか。「共に身すぎ世すぎで原稿を書きながら、時にはそこに生き甲斐を感じるべきだと思うこともあり、ろくでもない原稿を書いても締切りの関係だから仕方がないと口をぬぐっていることもある」(167ページ)。自分でもダメだと思いながら正当化したり、そうする自分をまたダメだと思ったり。

 そしてこう思う。「共にお互いさまだから、もしこちらを軽蔑する手合があれば、その者を仲間と思ってやらないだけである。」(167ページ)。売れない者同士が集まって傷をなめ合う。まるで今の芸人やバンドマンのようではないか。この界隈には100年前からこうした若者たちがいたというのがすごい。

 それでは、知り合いが売れるとどうなるか。焦る。大いに焦る。1923年、創刊当時の『文藝春秋』に「蠅」「日輪」を発表して以来、破竹の勢いで売れ、ついには小説の神様とまで言われるようになった横光利一のことを思うと、井伏は心穏やかではいられない。

 彼は言う。「私は横光のことを聞くごとに、何か慌しい気持を煽られるのを覚えたが、『これは邪道だ。諸君、どうぞお先に、と思わなくてはならん。自分は第三流の作家をもって任じるのだ』と私自身に言い聞かせるべきであった」(59ページ)。わかるなあ。この気持ち。嫉妬、劣等感、世俗を越えたいという思い、でもそうできない無力感。

井伏と太宰

 さて、こうしたダメな感じの街にやってきたのが太宰治だ。大学に入った彼が青森から出てきたのが1930年で、その3年後には荻窪に引っ越してくる。上京してすぐのエピソードがすごい。井伏のところに手紙をよこし、彼が返事を出さないでいると、会ってくれなければ死んでやると言ってくる。

 それでは、と出版社で会えば、手渡してきたのは当時、井伏が書いていた「ペソコとユマ吉」というナンセンス物の模倣だった。「きみ、こんなペソコ・ユマ吉の真似をしちゃ、毒だ。こんなことをする間に、プーシキンやチエホフを読んだらどんなものかね」(185ページ)。

 太宰もダメな時代があったというのがいい。その後、彼は阿佐ヶ谷将棋会に入り、何度も何度も原稿を持ってくる。井伏は批評などせず、とにかく読み続ける。初期から精神が不安定だった太宰にとって、文句も言わずに必ず読んでくれる井伏は、東京で自分を受け入れてくれる数少ない避難港だったのだろう。

 そうこうしていくうちに太宰は勝手に成長し、流行作家になった。もはや戦後になると、井伏のところにはほとんど顔を出さなかったと言う。それでも、彼に対する井伏の愛情は揺るぎなかった。青森に疎開している太宰の三鷹の家が空き家になっていたのだが、フランス文学者の中島健蔵がそこに住みたい、と言ってくる。

 結局、中島はその家には住まなかったのだが、もし太宰と中島が一緒に住んでくれていたら、太宰は死ななくてすんだのではないか、と井伏は思う。「少なくとも自棄っぱちの女に水中に引きずり込まれるようなことはなかったろう」(253ページ)。こうしたさりげない言葉に、井伏の深い想いを感じる。

立川に向かって中央線を歩く

 ところで、そもそも井伏はなんで荻窪に越してきたのか。はっきりとは書かれていないが、1923年の関東大震災がその大きな理由であろうことは容易に推測できる。当時、早稲田大学にほど近い鶴巻町に住んでいた井伏は、まさに都会のど真ん中で大災害を体験した。

 早稲田の煉瓦造りの講堂が一度に崩れる。あちこちで火の手が上がる。鎮火したあと竹橋のお濠の端を彼が歩いていると、石垣のすぐ下で、店の買い物袋を持った女が仰向けで死んでいる。男たちはうつぶせで死んでいる。こうした光景を見ているうちに、彼は頭がフラフラしてくる。

 そうこうしているうちに流言飛語が飛び交い、朝鮮人の虐殺が勃発する。彼等が井戸に毒を入れようとしている、隅田川の川縁では彼等と日本兵が銃を撃ち合っている、なんて荒唐無稽な噂が飛び交う。自警団が組織され、通行人を調べ出す。

 立川まで汽車が来ていると聞いて、井伏は新宿から歩いて行くことにする。その途中、今は中野駅前の丸井デパートになっている場所が芋畑で、そこで野宿しようと横になっていると農家のおじさんに見つかって、「お前さん、日本人か」ととがめられる。

 これはものすごく怖いシーンだ。結局、日本人であることが認められて井伏は助かるのだが、おじさんの気分次第ではどうなっていたかわからない。井伏は言う。「至るところで行きすぎの間違いが起きた。未だにそれを問題にする人がいるが、みんな流言に逆上させられていたのだから仕方がない」(221ページ)。

 これは暴力を肯定している言葉ではない。むしろ災害時の狂気を体験した彼が、ふだん何気ない顔をしている僕たちの中にどんな魔物がいるかを指摘している。立派な社会人やお父さんが、きっかけさえあれば何の罪もない人を殺してしまう。井伏はそうした人間の暗い部分を見ている。

 さて、余震で船酔いのようになりながらも井伏は立川までの道のりを歩ききり、ようやく汽車に乗ることに成功する。ちなみに被災者は無料で乗れた。停車する先々で歓迎され、食べ物を振る舞われる。「味噌汁が美味しいので私はお代わりをした。寝ぼけて啜る味噌汁はうまいものだと知った」(51ページ)。

 緊迫したシーンに出てくる、こうしたヌケた感じの一言が良い。ようやく汽車を乗り継ぎ、郷里である広島県の福山に井伏は辿り着く。だが、ただ何もせず田舎にも居づらくて、結局は東京に舞い戻ってしまう。

 その後も地震への恐怖は治まることがない。少しでも揺れを感じれば外に飛び出すし、わざわざ庭に手水鉢を置いて、水面にできるさざ波の方向を見て震源地を当てようとする。こうしたちょっとしたエピソードからも、大震災の恐怖が染みてくる。

 二・二六事件で軍人の家が反乱軍に襲撃されたり、戦争が始まると徴用されてシンガポールに送られたりと、井伏のこの作品に登場する出来事はかなり激しい。それでも全体としては、かっこ悪いことも何でも書き連ねてあって、しかもそこはかとないユーモアがある。

 淡々とした記述で浮かび上がってくるのは、森と池と川しかなかった多摩地区が、ほんの半世紀の間に巨大都市に飲み込まれ、大きく変貌していった、という事実だ。

 そしてこの同じ場所で、小説や音楽、演劇、お笑いといったジャンルの違いはあれ、売れない若者が集まっては夢を語り、作品を批評し、売れた仲間を嫉妬し、やがて歳を取り、ちらほら諦める者も出てくる、という流れを、無限に繰り返してきた。そのことは変らない。

 かつて売れない作家だった井伏鱒二はやがて、堂々たる昭和の文豪となる。けれども夢破れて消えていった多くの者たちへの彼の視線は温かい。

井伏鱒二『荻窪風土記』新潮文庫、1987年。

4-3.吉祥寺編 松家仁之『優雅なのかどうか、わからない』〜心がやわらかくなれる場所 に続く


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