4-0.吉祥寺編 プロローグ〜ロンロンよ永遠なれ

 僕にとって、街と言えば吉祥寺のことだった。東京都は一つのまとまりみたいに思われているけれど、実は東西でけっこう違う。23区と多摩、それから八王子の三つがゆるやかに繋がっているという感じかな。小平市で小中学生時代を過ごした僕には、吉祥寺は多摩の県庁所在地みたいなものだった。

 40年前の僕にとって吉祥寺は輝ける都会だった。当時の小平はのどかで、産卵の季節になると巨大なウシガエルが通学路を覆っては車に轢かれまくっているし、小学校横の森からは20センチぐらいはありそうな緑色の蛾が飛び出すし、とってもワイルドな環境だった。でも吉祥寺まで行けば、小平には無いものがたくさんある。映画館があり、近鉄と東急のデパートがあり、アーケードにはマクドナルドもあった。

 月に一回、吉祥寺まで母に連れて行ってもらうのが何よりの楽しみだった。服や靴を見たり、ソニープラザで小物を見たりする。そして最後には必ずマクドナルドでビッグマックを買ってもらった。当時500円ぐらいした気がする。ものすごくお洒落で、アメリカ風で、素敵だった。ソニープラザではトーキングカードという英語教材も買ってもらって、妹と全文暗記するまで何度も聞いた。英語にもソニーにも憧れた。もう半世紀近く前なのに、子どもの頃と基本的な価値観は変わっていないことに呆れる。そう考えると、吉祥寺こそ今の自分を作ってくれた街だと思う。

 中学に上がると、吉祥寺との付き合いも変わった。井の頭線の駒場東大前にある駒場東邦に入ったので、吉祥寺は乗換駅で、毎日通ったのだ。朝は満員電車の中で周囲の大人たちに押されて、小柄だった僕は宙に浮いたままの状態で学校へ行く。だが帰りは違う。丸井の電気売り場で出始めのパソコン(当時はマイコンと言っていた)をいじり、吉祥寺ロンロンの弘栄堂書店を見る。あまりに棚を凝視しすぎて、今でも本の配列や店内の雰囲気を思い出せるぐらいだ。ジュンク堂なんかに比べればすごく小さかったけど、全部見て回れるぎりぎりの大きさの書店は良かった。

 そのころ、授業で知った『解体新書』翻訳のエピソードがあまりに面白くて、背伸びして杉田玄白の『蘭学事始』を買ったことがある。これも弘栄堂だったかな。当時の岩波文庫の棚は暗かった。裸本に帯を巻いて、その上を透明なグラシン紙で覆っただけの装幀だった。そのグラシン紙が店頭でどんどん劣化して茶色くなっていく。だからどの本がどれかわからなくなる。そうした売る気ゼロの岩波文庫が中学生の僕にはたまらなくかっこよく見えた。

『蘭学事始』は面白い。全然オランダ語が分からないのに、そしてろくな辞書もないのに、杉田たちは根性だけで医学書を訳し始め、ついに完成させてしまう。江戸時代の日本人の気合いに圧倒された。でも、結局はその作業が楽しかっただけだろうが。フルヘッヘンドのくだりを憶えている。葉っぱを箒で掃くと庭でフルヘッヘンドする、ならば顔でフルヘッヘンドしているところはどこか、と考えて、あっ! 鼻か!と思いあたる。盛り上がっているという意味だったんだね。そしてチームで大喜び。蘭学者っていいなあ。今僕が外国研究者になり翻訳をやっているのも、蘭学者の一員になりたかったからかもしれない。

 とにかく『蘭学事始』にハマって電車の中でも読みふけっていると、坐っていたおじいさんに「そんなものを読んでいるなんてエラい!」と突然言われて席を譲られた。「これからもよくお勉強なさいね」だって。身長150センチもない子が詰め襟を着て熱心にそんなものを読んでいるなんて、確かにちょっと心配だ。

 吉祥寺ロンロンという駅ビルは、今考えても不思議だった。お洒落な服屋や雑貨屋もあるけど、「王様のアイディア」という、便利そうでそうでもなさそうな謎の商品を並べている店もあり、お婆さんがやっていて様々なぬいぐるみや袋などを売っているさえない店もあった。要するに、地方都市の商店街をそのまま駅ビルにした感じで、それがロンロンの魅力だったのだ。

 思えば、吉祥寺の街そのものがロンロンみたいな感じだった。地元の人は輝ける都会と考えているけど、東京の中心部を知っている人には、ただの地方都市でしかない。住宅街があり、たまに畑もあり、街自体も大きくなくて、アーケードを歩けばすぐに全部回れてしまう。お洒落な店も手作り感があり、カフェだって、年代や性別を問わず、いろんな人が入ってくる。まさに出会いがあり発見がある、愛しやすい規模の街だった。おまけに安全だったし。

 けれどもその後、吉祥寺は変わった。住んでみたい街ナンバーワンになり、資本が流入し、地元以外の人も大量に来るようになって、ホンワカしたムードはなくなっていった。おまけにロンロンも弘栄堂も消えてしまった。アトレになった今の駅ビルには、イケてる流行の店しか入っていない。それは資本主義的には正解なんだけど、ときどきピンぼけだったころのロンロンが懐かしくなる。

4-1.吉祥寺編 太宰治「ヴィヨンの妻」〜公園とアルコール に続く


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