3-2.ロサンゼルス編 レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』〜迷路としての都市

 ロサンゼルスに行って思ったのは、街という言葉が示すものが日本とはまったく違う、ということだった。たとえば、最寄りにスーパーがあるとする。日本だったら、すぐそこにスーパーが見えていたら、まあ3分ぐらい歩けば着くんじゃないかな。でも僕が住み始めた家から、たった道二本分離れたスーパーまで歩いて行くのに15分ぐらいかかった。しかも、僕以外に歩いている人なんてほとんどいない。

 どうしてこうなのか。ロサンゼルスが、車の普及後に発展したからだ。だから全域が、まるで千葉の湾岸地帯みたいに大ざっぱなレイアウトなのだ。まず全体のスケール感が違う。関東地方ぐらいの広さの場所に、いろんな性格の街が散らばっている。ちょっと隣の街に行くのも高速道路にのるのが普通だ。だって、大学も車で通うんだからね。だから朝夕はラッシュで渋滞してしまう。

 これに比べると、日本の街は本当に人間の体のサイズが基準になっているんだなあ、と思う。山手線の内側の面積なんて、実は凄く小さい。だからがんばればどこでも歩いて行ける。ロサンゼルスでは頑張っても着かないし、そもそも危険すぎて歩けない場所も多い。今まで自分は江戸時代のフォーマットのなかで生きてきたんだな、とロサンゼルスで実感した。

 これは良い悪いではない。どちらかといえば、僕は人間の体のサイズに馴染んだ街のが好きだ。だから、ちょっと東京の繁華街っぽいサンタモニカ地区が気に入っていた。商店街を歩いて、気になった店をひやかし、疲れたらカフェに入り、道行く人の顔を眺める。けれども、残念ながら、というべきか、そういうのはロサンゼルスの本領ではない。

 たとえば、アメリカなら店の看板は英語、と思うじゃないですが。でも違うんだな。巨大な韓国人街に行けば、ハングルしか書いてない店も多い。大部分がメキシコ系である東ロサンゼルスでは、英語よりスペイン語のほうがよっぽど勢いがあるし、中華街ではやたらと安い店の脇で洗濯物がはためいている。出身国や文化、言語にそって巨大都市圏が細かく別れていて、どんなマイナーな集団も集まって住んでいる。エチオピア人街の隣には、エリトリア人街まである。

 だから、ロサンゼルスには統一されたイメージがない。ダウンタウンのビル街が有名でも、その周りにはラティーノばっかりの商店街や、中国系の低賃金労働者たちが服をせっせと作っている工場が密集していたりする。ほんの近くにまるで別世界が拡がっていて、互いの交流がまるでない、というのがロサンゼルスの特徴だろうか。

 特に圧倒されるのは貧富の差だ。たとえばビバリーヒルズに行けば、本当に宮殿のような、学校の体育館何個分もある白い豪邸が建ち並んでいる。そこから20分ばかり高速道路を行けば、ギャングスタ・ラップで有名なサウスセントラルの黒人居住区だ。1992年のロサンゼルス暴動からもう10年くらい経っても、まだ燃えたままの建物もあったし、道路の舗装がバリバリに割れていたり、ちゃんとゴミの回収が来ていなかったりする地区もある。

 たぶんロサンゼルスに住んでいる人はみんなこのことを知っている。知っているのに、公共投資が全体に回っていない。社会の富は十分以上にあるに決まっているだろうに。おそらくこれは、我々、という感覚を作ることにアメリカが苦戦しているからではないか。

 仲間だと思えばこんなに放っておくことはできまい。けれども実態は、互いにあいつらと思い合っている。金持ちは自分が儲けることばっかり考えやがってと貧しい者たちは怒り、貧乏人は怠けてるのに権利だけは主張する、と裕福な者たちは見下す。果てしない対立は絶望を生み、絶望は犯罪を生む。この悪循環から抜け出す道はないのか。

黒人居住区で見た光景

 1つヒントがある。僕が黒人居住区の祭りに参加したときのことだ。やってきた地元の議員に、君はここに住んでるのかと言われ、そうです(ウソ)、と笑顔で答えて握手したりしたあと、青年コーラス隊の歌が始まった。やっぱりうまいな、と思って聞いていると、あるおばちゃんが挨拶に立った。どうやら地元では偉い人らしい。

 彼女は言った。この子たちはドラッグもやらず、ギャングにも入らず、歌という自分が打ち込めるものをみつけて一生懸命頑張ってきました。クラスの仲間は犯罪に走る子も随分いるのに。そして今、努力の成果をみなさまにお見せできたのです。本当に尊敬すべき子たちだと思います。だから皆さん、温かい拍手をもう一度どうぞ。

 僕はびっくりした。田舎のPTAみたいなノリなのに、挨拶の内容はびっくりするほどワイルドだ。そのとき、日本ではギャングスタ・ラップの世界は怖い物見たさで楽しむファンタジーだけど、この人たちにとってはただの重い、あまりにも根深い問題をはらんだ現実なんだ、ということが腑に落ちた。なんだかかっこいい、なんて言っていられるのは、遠くの安全地帯で護られて生きている人たちだけなのだ。

 けれどもここでは、努力があり、愛があり、たぶん裏切りや苦しみもたくさんあって、それでもなんとか成長しようと努力している子どもたちがいる。そしてその姿を見まもりながら、心から支援する大人もいる。要するにみんな普通のちゃんとした人間で、たまたま奴隷制後という悲惨な歴史の中に生まれて、精一杯もがいているだけなんだ。このことに気づいただけでも、僕は留学した意味があったと思う。

ロサンゼルスで西部劇

 レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』も巨大な貧富の差が前提となっている。依頼人のスターンウッド将軍の先祖は、かつてメキシコ戦争で士官をしていた。1846年から2年間続いたこの侵略戦争でアメリカはメキシコから国土の北半分であるニューメキシコとカリフォルニアを奪い取った。すなわち、現在のロサンゼルスの街を築いた張本人の末裔というわけだ。

 だが今や、大金持ちのスターンウッド家は崩壊の危機にある。倒れてきた馬のせいで下半身不随となった将軍は体が弱り、温室で暮らすことでかろうじて命を長らえている。長女はギャンブル狂いでマフィアの賭場に出入りし、次女は薬物中毒で、ときどき激しい暴力衝動に駆られるが、その間の記憶すらない。

 マーロウへの依頼内容は、次女への脅迫相手を排除することだった。だがその相手は何者かに射殺され、スターンウッド家のお抱え運転手も車ごと海に飛び込んで死ぬ。なかでももっとも気になるのは、長女の夫であるラスティー・リーガンだ。元アイルランド義勇軍の士官だった彼は祖国にいられず、アメリカに不法入国したあと、酒の密造にたずさわっていた。

 突然失踪した彼を探してほしい、と将軍にはっきり指示されないことにマーロウは疑問を抱き、独自に嗅ぎ回る。何しろ、リーガンこそ将軍がいちばん信頼していた人物なのだから。すると、マーロウが行く先々でポルノ業者や詐欺師など、いかがわしい周辺人物たちが次々殺されていく。いったいその裏には何があるのか。そしてまた、リーガンは果たして生きているのか。

『大いなる眠り』には基本的にアウトローしか出てこない。金持ちであるスターンウッド家の人々は平気で法を無視する。そして金を掴もうとする男たちも同様だ。彼らにとって、圧倒的な貧富の差を乗り越える方法は犯罪しかない。そしていつも捜査が強引で、時に暴力もためらわないマーロウだってそう遠くはない。場所はロサンゼルスという都会だが、やっていることは西部劇の保安官と変わらず、犯罪者を超法規的に懲らしめている。

マーロウたちの職業倫理

 それでは彼らは全員同じなのか、といえばそうではない。マーロウには確固たる職業倫理があるのだ。彼は言う。

「好きでやってるわけじゃありません」と私は言った。「しかしそれ以外に何ができるというんです? 私は依頼を受けて仕事をしています。そして生活するために、自分に差し出せるだけのものを差し出している。神から与えられた少しばかりのガッツと頭脳、依頼人を護るためにはこづき回されることをもいとわない胆力、売り物といえばそれくらいです」(179ページ)。

 誰に評価されなくとも、自分が持てる最高のものを相手に差し出す。常にベストを尽くし、納得できる結果が出なければ報酬を返しさえする。相手が銃を持っていなければ、自分も銃を使わない。しかも職務上知り合った女性とは簡単には寝ない。なんだか、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、神の国に徳を積もうとがんばるアメリカ人の典型みたいだ。

 だから将軍もマーロウも、リーガンに一目置く。彼は単なるマフィアではない。祖国を解放するために闘い、アメリカで違法な稼ぎをしながら、おそらくそれをアイルランド革命に役立てようと考えている。他にも、地方検事のワイルドについて「彼はアイルランド人特有の、裏のない大胆な笑みを身につけていた」(180ページ)なんて表現も出てくる。チャンドラー自身の母親がアイルランド系移民であることを考えると、彼はこうした人々に親近感を持っていたらしい。

 だが、都市はこうした倫理を破壊してしまう。スターンウッドの娘たちは次々と問題を起こす。チャンドラーの他の作品を読んでも感じるように、まるでマーロウは巨大で邪悪な迷路を彷徨っているようで、1つの問題を解決すること自体が別の問題を引きおこす。マーロウの騎士道的な倫理は人間サイズだ。だがある規模を超えた街は、人をひたすらすり減らす。いくらその中でもがこうが、最終的な着地点などありえない。『大いなる眠り』を最後まで読んでも、すっきりする結論などない。悪は遍在し、しかも増えも減りもしないのだ。

 そして現代の都市に生きる我々だって、マーロウとそう遠くないのではないか。情況はいかに厳しくとも、目の前のできることに誠実に取り組み、今日1日、生き延びられたことに感謝する。マーロウの姿には、そうした地道な知恵が感じられる。

参考文献
レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』村上春樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、2014年。

3-3.ロサンゼルス編 チャールズ・ブコウスキー『パルプ』〜生を慈しむ に続く


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