3-1.ロサンゼルス編 ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』〜カリフォルニアの緑の寿司

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 ロサンゼルスに住んで気づいたのは、自分がアジア人だということだ。そんなの当り前だろう、と思うかもしれない。僕も日本ではそう思っていた。でもそういうことじゃないんだな。

 南カリフォルニア大学の英文科の大学院に入り、最初に出会ったのが指導教員のヴィエト・タン・ウェン先生だった。さっそく面談してもらい、飯でも食おう、ということになって向かったのがカフェテリアだ。

 そこではピザやサンドイッチ、ハンバーガーといったいかにもアメリカンな食べ物と一緒に、巻き寿司パックが売られていた。二人でアボカドたっぷりのカリフォルニア巻きを買い、さあ、ものすごく緑色のお寿司を食べよう、というところで、ヴィエト先生が不思議なことをし始めた。

 割り箸を割ったかと思うと、それをシュッ、シュッっと互い違いに擦り合せ始めたのだ。そしてバリみたいなものをきれいに落としたのである。いや、もちろん日本では普通のことですよ。でも、アメリカまで来て、まさか自分の先生がそうするとは思わなかった。

 そのときに気づいた。これがアメリカなんだ、って。日本ではサリンジャーやフィッツジェラルドなどのお洒落な文学に憧れ、そのあまり本場まで来た僕にとって、先生の実にアジアっぽい仕草は衝撃だったのだ。

 ヴィエト先生は言った。コージ、ロサンゼルス空港に降り立った一歩目で、君はもうアジア系移民になった。だからそのつもりで学び、生きてほしい。えーっ、僕はどこに行っても日本人なんじゃないの。

 思えば、それはベトナム難民としてこの国にやって来たヴィエト先生の人生を賭けた言葉だった。彼は1971年にベトナムで生まれ、75年、南ベトナム政府崩壊とともに脱出、そのあとカリフォルニア大学バークレー校を経て、若くして大学教師になった。

 彼は、アジア人としてアメリカに生きることの意味を僕に教えてくれようとしていたんだと思う。アメリカではベトナム人と呼ばれ、ベトナムに行けばアメリカ人と言われる。5歳児程度のベトナム語しかできないが、どんなに努力してもアメリカでは、完全な国民としては認められない。

 彼を通して、僕は複数の国家や言語のあいだにいる人たちに興味を持つようになった。そして日本ではなく、アジアという枠組みで自分をとらえるように変わっていった。

 そこまで英語が得意なわけじゃない僕を、他にもいろんな人たちが助けてくれた。もちろん日本人留学生、そして韓国系や中国系の学生たち。中南米系や黒人の学生にも親切にしてもらった。ユダヤ系の人たちが、見た目はまるで白人なのに、すごく疎外感を抱いていることも目の当たりにした。

 白人男性の作品に憧れて留学したのに、気づけばマイノリティーの人々と次々に出会い、仲間としてつき合う日々を送るようになった。ロサンゼルスには3年いて日本に戻ったけど、ある意味、心はまだあの場所にある。

 そのあと、ヴィエト先生は『シンパサイザー』という小説を書き、ピュリッツァー賞を獲って突然、有名人になってしまった。日本語訳が出たんでさっそく読んだのだが、やっぱり、ベトナム戦争を背景に、あいだにいる人の苦悩について書いていた。僕はなんだかとても懐かしかった。

白人とそうでない人たちの境界線

 さて、ジェームズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』だ。ロサンゼルス文学の古典と言われるこの作品は、白人とそうでない人たちの境界線の物語である。フランクは逞しく金髪の若者で、フラフラと旅をして回っては、いろんな場所でちょっとした仕事をして暮らしている。メキシコとの国境地帯で勝手にトラックに飛び乗った彼は、見つかって道端で下ろされる。

 そのときにはなんとかロサンゼルス郊外まで北上していた。彼が目を付けたのはちょっとした安食堂だ。ギリシア人の小男がやっているここに入った彼は、金もないのに次々と注文をする。そのときには、ちょっと皿洗いなど手伝えば切り抜けられるだろう、なんて考えている。

 けれども彼の気持ちを変えたのは、コーラの存在だった。どうしてこの店に、こんなにセクシーな白人女性がいるのか。聞けば彼女はアイオワ州デモインの出で、地元の美人コンテストで優勝し、一旗揚げようとしてハリウッドに来た。だがちょうどサイレントとトーキーの切り替えの時期で、女優になり損ねたのだ。

 仕方なく食堂のウェイトレスをしていた彼女を救ったのが、このギリシア人だった。彼の妻となることでコーラは貧しさから逃れられた。けれども今は後悔している。何しろ彼を生理的に受け付けられない。まだある。彼の子を産んでしまえば、自分は白人から滑り落ちて、有色人の仲間になってしまうのだ。

 人種を巡る夫婦の亀裂の真ん中に現れたのが、白人の流れ者であるフランクだ。コーラとフランクはたちまち愛し合い、ギリシア人を始末することを計画し始める。風呂場での1度目の試みは失敗したものの、サンタ・バーバラで成功し、運良く無罪を勝ち取る。

 けれども運は続かなかった。いつ裏切るかわからない、と互いを疑いだした二人は苦しい日々を送る。結婚することで事態を打開しようとするが、交通事故に遭って、すべてを失ってしまう。

白人でなくなることの恐怖

 この作品の核になっているのは、白人でなくなることの恐怖だ。これは日本に住んでいるとわかりにくい。19世紀半ばの奴隷解放宣言以降も延々と人種差別が続いてきたアメリカ合衆国では、白人であることがそのまま、まともな人間であることを意味してきた。

 だからこそ、多くの移民たちが差別と低賃金労働に耐えながら、なんとか白人の仲間に入れてもらおうと死にものぐるいで努力をしてきた。イタリアやギリシアなどの南欧系やアイルランド系の人々が白人と認められるようになったのはようやく、第2次大戦後である。

 それに続いてアジア系の人々も上昇していった。だが、なかなかそこに入れない人々もいる。中南米の文化を保ちスペイン語を話し続けるラティーノやラティーナの人々、そして黒人たちである。

 言い換えれば、英語を話すイギリス系を中心に白人の輪が拡がっていて、その内側に入れてもらおうとして多くの人々が争う、というのが、今も昔も変わらないアメリカの在り方だ。すなわち、基本原則として社会に人種差別が織り込まれているのがアメリカなのだ。

 だからこそ、黒人への過酷な差別がなくならない。なぜなら、黒人は人種ではなく、「白人ではない人」とされた人々のことだからだ。そこには科学的な定義など存在しない。ただ、排除してもかまわない人たちとして社会的に設定されているだけだ。

 この点では、黒人たちはサルトルの言う、ヨーロッパにおけるユダヤ人に近い。ユダヤ人たち相互にはほとんど共通点はない。ただ、キリスト教徒たちから見て、自分たちとは違う人々として歴史の中で定められてきただけだ。

 もちろん、こうした白人という概念や差別は端的に間違っている。アメリカの憲法でも否定されているし、多くの人々が日々、廃絶を求めて闘っている。けれども、アメリカ建国前から数百年も続いてきた負の歴史はなかなかぬぐい去れない。

境界線の3人

 話を戻そう。『郵便配達』の舞台はメキシコとアメリカの国境にほど近い領域である。1848年、米墨戦争でメキシコの北半分はアメリカ合衆国に奪われた。このとき、カリフォルニア、アリゾナなどの州がアメリカに力で併合されたのである。そしてもとからメキシコ人たちが住んでいた場所に白人たちが入植してきた。

 だからこそ、コーラは自分がメキシコ人と間違われることを極端に嫌う。「髪が黒くて、見かけもそこっぽいかもしれないけど、あたし、あんたとおんなじくらい白いから」(10ページ)。そしてフランクのほうも、彼女の目は青い星のようだと思う。

 けれども、白人とそれ以外の境界線は、特にこの場所では曖昧だ。白人であることがまともな人間であることの定義だとしたら、それ以外は動物に近い存在、ということになる。そしてまさにコーラは動物に例えられてしまう。フランクとの初めてのキスで「嚙んで! あたしを嚙んで!」(20ページ)と叫び、血を流して喜ぶ彼女のことを、彼はピューマのようだと感じる。

 コーラ自身もそれはわかっている。そして女優になれなかった自分はハリウッドでは猿にも劣ると言う。「猿にも及ばないわね。だって、猿は人を笑わせられるもの。あたしにできたのはただ人をムカつかせることだけだった」(25ページ)。

 フランクはどうか。背が高くて体格がよく、金髪で肌の白い彼は理想的な白人だが、経済力がない。もともと根無し草の彼は、1つのところに落ち着いてしっかりと生活を築き上げられない。コーラは彼の不良っぽさに惚れているが、同時に安定した中流の暮らしも望んでいる。

 そしてギリシア人だ。小柄でぶよぶよと太り、脂ぎった真っ黒の髪に臭い香油を塗っている彼は、アメリカ国籍こそあるものの、単語の綴りも覚束ない。しかし持ち前の忍耐強さしぶとく稼ぎ、今やスーツを何着も持っているいっぱしの小金持ちだ。

 こう見てくると、3人とも白人とそれ以外の境界線に位置することが分かる。そして他の人を押しのけて、なんとか白人の中に入れてもらおうとしてあがくのだ。そこでコーラが思いついたのがこれだ。ギリシア人を殺して金と店を奪う。そしてフランクと結婚して彼との子どもを産む。こうすれば、血統と経済力の両方が手に入る!

 もちろんそう上手くはいかない。ギリシア人は酒を飲み、はしゃいでサンタ・バーバラの崖の上で大声を出して木霊が返ってくるのを楽しむ。そして背後から近づいたフランクは彼をスパナで殴り殺す。ようやく死んだ、とコーラとフランクが思ったところで、ギリシア人の声がきれいに戻ってくる。

 そしてその声同様、不安や恐怖は常に2人を追ってくる。青かったコーラの目は今や真っ黒だ。そして彼らは破滅する。もちろん、白人であろうとすることで人間の心を失ってしまった彼らに、平安などあろうはずもない。

参考文献
ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』田口俊樹訳、新潮文庫、2014年。

3-2.ロサンゼルス編 レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』〜迷路としての都市 に続く


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