春街スケッチのころ ますむらひろしインタビュー
はっぴいえんどが解散しなければ、自分がジャケットを描けるようになりたかった
作詞家・松本隆の原点となるテキストが収録された『エッセイ集 微熱少年』(立東舎文庫)。これは1975年にブロンズ社から刊行された単行本を、装幀:羽良多平吉、イラストレーション:ますむらひろしによるビジュアルを可能な限り忠実に文庫化したものです。カバーにもますむらひろしさんのイラストがあしらわれ、本文には「春街スケッチ」という印象的なイラスト×テキスト作品も収録されています。今回は『エッセイ集 微熱少年』の刊行を記念して、ますむらさんに当時のお話を伺ってみたいと思います。ますむらさんは、ご存じのようにその後は漫画家として活躍し、2016年2月6日からは八王子美術館で特別展(「ますむらひろしの北斎展 ATAGOAL×HOKUSAI」)が始まるほか、ATAGOAL CALENDARも毎年発表と、現在も旺盛に作品を発表し続けています。
あのときは、ものすごく頑張った
Q 『エッセイ集 微熱少年』にはますむらさんと松本隆さんの共作とも言える、イラストレーションとテキストから成る「春街スケッチ」という作品が掲載されています。どういう経緯で、このような作品が出来上がったのでしょうか?
A もともと『ガロ』に「春街スケッチ」という漫画を描いていて、それにははっぴいえんどの影響を受けた文章なんかが入っていたわけです。それを松本さんが読んで、見つけてくれたんですね。で、『微熱少年』をブロンズ社から出すというときに、「なんかイメージが欲しい」という話になったみたいで。それで、表紙の絵と、本文の方にも何カットか新しく描き下ろしてほしいということと、「春街スケッチ」にあったものを流用して使いたいと。そうした素材に対して、イメージした文章を松本さんが新たに書くということでした。流用したものに関しては、『ガロ』で描いた細かいものから、たぶん松本さんが選んだと思うんですけど。
Q ますむらさんは当時、お幾つだったんですか?
A 22~23歳のころで、要するに初めての仕事だったんですね。『ガロ』に描いたりはしていましたけど、指名されて、絵を描いてくれっていうのはほぼ初めてだったのと、それが松本さんだったから、それはびっくらこいたわけですね(笑)。
Q Twitterでも、ますむらさんは「狂喜乱舞して描いた」と、当時のことを回想されていましたね。
A あのときは、ものすごく頑張ったんですね。
Q 松本さんとは打ち合わせみたいなことはあったんですか?
A 1回お会いしたんですけど、その時は羽良多平吉さんも一緒にいたから、たぶんもう装幀をどうするかという段階で、イラストを上げたところで打ち合わせをしたんじゃないかな。そのとき、自分は高校時代からはっぴいえんどのファンで、解散しなければ、いつかジャケットを自分が描けるようになりたいなと思っていたというのをお伝えしました。それで松本さんが、「待ちぶせていたんだね」というフレーズを作品の中に入れたんですね。
Q では、このミック・ジャガー風の人物がますむらさんなんですね!
A 当時のね(笑)。
Q そういうやりとりがあって、作品が完成したというのはとても興味深いですね。
人生が一変してしまった仕事
Q 好きなバンドのメンバーから初仕事のオファーが来たというのは、素晴らしいスタートですね。
A ちょうど、自分はそのときに松戸の看板屋さんみたいなところでバイトをしていて、友達に会社の中から電話したんですね、「松本隆から仕事が来た!」って。そうしたら、それを聞いていた看板屋のオヤジから、電話が終わった途端、「キミ、いくら仕事を教えても、いずれ辞めるだろうからクビです」って言われてしまった(笑)。「いや、ここの仕事はやりますよ!」って言ったんですけど、「いくら教えてもどうせ、あなたはここには長くはいないだろうから」って。教えても意味が無いっていうことで、クビになってしまったんです。
Q 本性がバレてしまった……。
A この仕事が来たっていうことで、非常に喜んでいたわけですね(笑)。浮かれていたというか。それで、「こいつはダメだ」「辞めるに決まっている」って(笑)。
Q いろんな意味で、人生が一変してしまったわけですね。
A 『微熱少年』が出た後に、ブロンズ社からは「描き下ろしで1冊やらないか?」ということになったんですね。松本さんがブロンズ社を通して仕事をくれた結果、『青猫島コスモス紀』(1976年)ができたわけで、そういうことの入口になった仕事です。
Q 羽良多平吉さんとは、その後も長くお仕事をされていますよね?
A 『微熱少年』で初めて会ったんですね。それから漫画を1冊、2冊出したときに、装幀は自分でやるっていう考えだったのでやってみたら、全然うまくできなくて……。で、「ああ、そうだ。羽良多平吉さんがいるから、あの人に頼もう」っていうことで、3冊目(『アタゴオル旅行記』1980年)のときに羽良多さんのところに編集と打ち合わせに行ったんです。そこからずっと羽良多さんには、自分の漫画の装幀はだいぶやってもらっています。
『ガロ』という環境
Q もともと『ガロ』に「春街スケッチ」が掲載されていたということですが、当時はやはり『ガロ』というのが大きな存在だったわけですね。
A 『ガロ』ってよくわからない漫画がいっぱい……面白いっていうよりも、何だかわからない漫画がいっぱいあるなって思っていて。漫画は描きたいと思うけど、何を描いていいかよくわからないというときに、『少年ジャンプ』の方は商業誌ですから本当に普通の人が読んで普通におもしろいって思うものを描けっていう方針で。『ガロ』は長井さんがやっぱりなかなかの人物で、描きたいように描けばいいんだから、編集はいちいち「ああせいこうせい」とは言わない。その辺で、自分でどう描けばよいかみたいなことを考えつつ、描いていたわけですね。で、自分はもともとイラストレーターになりたかった口なので、1枚でいつまでも見ていられるような絵を描きたいということがあって、「春街スケッチ」にしてもそうですけど、『ガロ』ではイラストに近いものを描いていたんです。ただ、だんだん漫画……セリフを言ってコマが動いていく、そういうことの面白さを、描いている内に自分でつかむわけで。そういう、成長する期間に『ガロ』は自分に描かせてくれたんですね。
Q では、何年間かは『ガロ』に寄稿されていた。
A そうですね。3年くらいですか。その間に、朝日ソノラマの編集者が新しく『マンガ少年』っていう雑誌を出すということで『ガロ』編集部に来て、「この作家とこの作家の連絡先を教えろ」と言っているときに、自分は青林堂でバイトをしてたんですね。
Q 青林堂で働かれていたんですね!
A 9ヶ月間だけですけどね。で、長井さんが「ますむらひろしなら目の前にいるよ」って(笑)。それで翌年『マンガ少年』で仕事が始まって、そこから原稿がお金になるようになったんです。それまでは、とにかく朝から晩までずっと描きたいっていうことで、『青猫島コスモス紀』を描くために青林堂のバイトも辞めて、半年くらいして『青猫島コスモス紀』が出た直後に連載が始まったから、そこはうまくいけたんですけど。でも、それまでは「次はどうやってバイトしようか?」っていう感じでした(笑)。
Q 『ガロ』は原稿料が出ない雑誌として有名でしたよね。
A そう。だから、ある程度までは頑張れるけど、それ以上原稿料が無い中で描くっていうのは、なかなか難しい。当時は南(伸坊)さんが編集長で、長井さんはその後ろにいる感じでしたけど。南さんが嵐山光三郎さんとかいろんな人を見つけて来て、ページを作ったりしていました。実際『ガロ』は、本を出すのに原稿が集まってこないくらいひどかったんですね。お金にならないからみんな、なかなか描けと言っても描けるものではない。しょうがないから南さんはあちこち電話して、「どうですか、ひとつ、16ページ」なんて言いながら(笑)。「結構たいへんなんだなぁ」って思っていました。そういう時期でしたね。
1952年、山形県米沢市生まれ 宮澤賢治の影響を受け漫画家になる。 アタゴオルという幻想世界を長年描いてきた。現在、「銀河鉄道の夜」を再度漫画化中。