緊縛大全のころ 宇野亞喜良インタビュー
時代を共有していると、何だか通じ合っていたんでしょうね
「作家」になるはずではなかった「作家」、団鬼六。その半生をユーモラスに綴った自伝『SMに市民権を与えたのは私です』(立東舎文庫)には、著者と交流のあったさまざまな人物が登場し、熱い昭和の日々を駆け抜けていく……。その中には、“友人”としてグラフィックデザイナー/イラストレーターの宇野亞喜良さんのお名前も挙がっている。宇野さんは団鬼六作品の装幀を多数手がけており、写真集『緊縛大全』の構成も担当するなど、団鬼六とのかかわりが深いのだ。そんな宇野さんだけに、今回の『SMに市民権を与えたのは私です』リイシューに際しても、カバーデザイン&イラストレーションに腕を奮っていただけた。
団鬼六との出会い
Q 『SMに市民権を与えたのは私です』では、“篠山紀信は友人の宇野亜喜良に紹介された”という記述があって、“友人”という表現がまずは意外でした。
A 団さんには妹さんがいらして、その妹さんをまず知って、それから「こういう兄がいるんだけど……」ということで、六本木のクラブで紹介されたんですね。
Q 妹さんは本書にも登場されますが、歌手をされていたようですね。
A ええ。黒岩三代子さんという方で、ジャズシンガーですが、美人でタッパもあったから、映画やドラマなんかにも出たりしていました。
Q その頃は、皆さん六本木で遊ばれていたのですか?
A 僕は遊んでいなくて(笑)。ただ、僕の周辺には割とゲイの人が多くて、そういう人たちが「黒岩三代子がすごい面白い」って言ってたんです。で、何かのきっかけで知り合って、僕の家のパーティーに黒岩さんが来てくれた。そのときにガードマンというか、マッチョな青年が一緒に来るんですね。それで、そういう男の子たちの前でその青年が服を脱いで、筋肉をピクピクってやって見せるんです。そうすると男の子たちが、ヤンヤの拍手喝采。そんなことがあったりして(笑)。
Q そういった流れで、団鬼六さんと知り合われた?
A そうなんです。時期的には、『緊縛大全』が出る1年ちょっと前くらいだったと思います。当時SM系の雑誌が幾つかあったんだけど、掲載されているのは普通の主婦を撮った写真だったり、アマチュアの人が愛好会で撮った写真だったりと、アマチュア写真が多かったんですね。だから、写真集が出るんだったら、ちゃんとしたプロで撮ったらいかがですかということで、僕が篠山紀信を紹介したんです。「キンバク写真を撮るんだけど……」って言ったら、金箔を体に貼って撮るのかと思ったって、篠山紀信は何かに書いていましたけどね。でも、みんな半分冗談交じりに書いているから、よく分からない(笑)。
『緊縛大全』の現場
Q 『緊縛大全』は、宇野さんが構成、篠山紀信さんが撮影という豪華な布陣で作られています。
A 僕は撮影にも、ほとんど立ち会いました。団さんが三浦半島にいらしたときに、確か学校の先生をされていたんですよね? それで、そこの学校なんかを平気で紹介してくれて、体操道具が置いてある部屋なんかでSMの写真を撮りました。あとはバスの車庫みたいな場所があって、バスの中で縛りの写真を撮ったり……。篠山紀信がノッて、吊り革に両足を下げて、手も両方吊り革に下げて、車中にぶら下がっている、車掌の帽子をかぶった女の子を撮ったり……。この自伝を読んでも分かりますが、団さんは結構楽天的というか、豪放磊落な人だから、SM写真の撮影も悪いことだとは思っていなかったんじゃないでしょうか? 婦人科のお医者の部屋も借りたりして、モデルを分娩台に縛ったり、そういうこともしていましたから。趣向性の強いことに自分がかかわっていても、恥ずかしくなかったんでしょうね。
Q 和田誠さんの『銀座界隈ドキドキの日々』によると、篠山紀信さんはライト・パブリシティというデザイン会社で和田誠さんの後輩に当たり、宇野さんは日本デザインセンターというデザイン会社に所属されていて、和田さんとはよくお会いになっていたそうですね。
A ライト・パブリシティが7丁目あたりで、我々は4丁目の京橋寄りでしたけど、銀座の5丁目くらいにあった中華のお店で、お昼によく会ったりしました。あと、アートディレクターズクラブ(ADC)の賞を受賞すると、隣の席に篠山紀信がいたり。デザインセンターには篠山紀信の日大での同期のカメラマン、沢渡朔がいたり。そんな感じで、いろんなふうにつながっていましたね。
今回のイラストに関して
Q 団鬼六さんとのかかわりが深いということで、今回の『SMに市民権を与えたのは私です』ではカバーのデザインとイラストレーションをお願いしたのですが、ご快諾いただけて、素晴らしい装幀に仕上げていただきうれしいです。
A どこかにSMっぽい感じが残っていて、絵はそんなにリアリズムではなく……今回はそういう感じをちょっとシンボリックに描きたかったんですね。国籍不明の女の子で、少し髪の毛もカールしていて、裸ではなく、靴だけ履いているという、ちょっと変な、ナンセンスな感じです。花の大きさとか……花が尻尾になっていて、尻尾もちょっとアヌスに差し込んでいるような苦痛もかすかに感じて、それが蛇にもなっている。団さんのレパートリーの『花と蛇』のイメージもありますね。
Q 靴がかわいいですね。
A ちょっと中国風な感じで、でも中国にこういうのがあるかは分からない、適当ですけど(笑)。日本のSMとヨーロッパのSMでは、ヨーロッパは結構器具を使ったりとか、革の衣服があったりして、どこかにコスチュームがあって、どこかが裸ということが多いんですね。でも、日本は違いますよね。特に団さんは、そんなにハードな感じではなかったし。シークエンスとしては、普通の女性や名家の奥さんが身を落とす、縛られていく……そういうものがお好きなのかなっていう感じもしますよね。あんまり、“◯◯縛りで吊るす”とかっていうのではなく、精神的なこととかの方がね。
Q いわゆる“ソフト派”ということですね。
A でも、SM以外では割とユーモラスな作品も多いですよね。だから僕も、挿絵では結構ユーモラスな絵があります。あと『美少年』なんかは、同性愛的な小説だったりして。この『SMに市民権を与えたのは私です』は、ちょっと面白くしているところもありそうな感じがしますけど(笑)。たこ八郎とか、いろんな人が出て来ますよね。親分肌みたいなところがあったのかなって、思います。小説を読んでいても、そういうシークエンスが多いですから。
Q 鬼プロでは映画、雑誌、写真集などの事業をたくさん手がけられていますから、実際に親分肌だったんでしょうね。宇野さんがかかわられた日々の団さんは、どんな方でした?
A 着物が多かったという記憶ですね。そういう情景は覚えているけど、あんまり話の内容なんかは覚えていないんです。これは誰でも同じで、例えば寺山修司とどんな思い出があるかって聞かれても、ほとんど無いんですよねぇ。ドイツのエッセンという都市の劇場があって、そこでドイツ人による寺山修司の演劇をやったときに、僕は美術で半月くらい同じ宿舎にいたけど、何を話したのかあまり覚えてない。当時は一緒に仕事をすれば、理屈っぽく、思想がどうだとか、コンセプトがどうとか、何にも言い合わないでも、結果でちゃんと融合していたみたいな……そういう面白い時代だったんです。時代を共有していると、何だか通じ合っていたんでしょうね。
1934年名古屋生まれ。名古屋市立工芸高校図案科卒業。カルピス食品工業、日本デザインセンター、スタジオ・イルフイルを経てフリー。日宣美特選、日宣美会員賞、講談社出版文化賞さしえ賞、サンリオ美術賞、赤い鳥挿絵賞、日本絵本賞、全広連日本宣伝賞山名賞、読売演劇大賞選考委員特別賞等を受賞。1999年紫綬褒章、2010年旭日小綬章受賞。 主な作品に「宇野亜喜良60年代ポスター集」「奥の横道」「MONOAQUIRAX+」「宇野亜喜良クロニクル」、絵本に「あの子」(今江祥智・文)「白猫亭」「上海異人娼館」(寺山修司・原作)「おおきなひとみ」(谷川俊太郎・詩)「X字架」(穂村弘・文/短歌)など。 刈谷市美術館、Bunkamuraギャラリー他、個展多数。キュレーターや舞台美術も手がける。TIS会員。